- チャット中毒 -

 
昨年の5月にパソコンを買った。以前から文筆活動に使っていた、10年前に買ったT社の某ワープロ専用機は、めざましい機種の進化の中でいつしか年代物と化し、おめーはそれでも日本人か!とトンカチでぶん殴りたくなるほどの(カタカナの名前だったから今思えば外国人だったのかもしれない)人を馬鹿にしてるとしか思えないフザケた変換にやがて私のヒステリーも限界に達した頃、むらむらと沸き起あがった「こうなったらパソコン買ってやる!!」願望は脅迫観念にも似た暴力的な衝動となり超ものぐさの私を秋葉原へと向かわせた。

 なにも重たいパソコンを持ち帰らなくてもいいのに、うれしさのあまり私はずるずると引きずるように一時間かけて電車で家まで持って帰った。帰宅ラッシュで混んでいる電車の床にばかでかい箱を置いた私を、まるで犯罪者を見るような周囲の冷たい視線がつきささったが、そんなことはどうでもよかった。どうせPCを持っていない貧乏人が羨んでいるのだというものすごい解釈を勝手にして、私はひとり勝ち誇ったような不敵な笑みを浮かべていた。(お前が迷惑なんだよ!)

 家に持ち帰り早速インターネットに接続し、プロバイダーのホームページの中をもの珍しくあちこち散策しているうちに、噂に聞いていたチャットとやらを見つけ、何気にクリックしてみる。ハンドルネームを決めてください、との指示に従い適当な名前を入れ、(確かくりきんとんかなんかだったと思う)中に入るとそこはまるで、小学校の理科の実験のとき顕微鏡でのぞいたようなミドリムシとかゾウリムシとかいった微生物が大きなガラスびんの中にうじゃうじゃ蠢いているような印象であった。正直言って気持ち悪かった。とりあえず眺めていると、微生物が話しかけてくるではないか。

「こん、くりきんとん」
あちらから、こちらから。ゾウリムシやミトコンドリアが私の名を呼ぶ。
あわてて返事をする。
「こんばんは。」
「どこから?」
「え?……今、家から」

しばらく沈黙があったのち、話題はよそへと移る。しまった、はずした… おまけに、賢明に話に参加していたつもりが、最初からずっと特定であるひとりの人にだけ話し掛けていたということが判明したときには、さぞかし相手に不気味な思いをさせただろうと申し訳なくなった。そんな風にして、私はしょぼいチャットデビューを果たしたのだった。しかし、初めてネット上でそれもどこの誰だかわからない人とリアルタイムで会話をするという体験はかなり衝撃的だった。たとえそれがゾウリムシの姿をしていても。

 そんな感じで始めたチャットだったが、いつしかのめり込むようになるとは当初は夢にも思っていなかった。最初は一週間に一度くらいのペース。ひまつぶしのつもりが、やがて顔見知りも出来て、次第に準常連となる。そのうち入る部屋が2つくらいにしぼられ、いつしか毎日帰宅と同時にネットを立ち上げるのが日課となっていった。

 顔見知りがやがて仲のよい友達となり、どういうわけか年下の(チャット仲間はたいてい私より年下である)女の子から恋愛やら仕事の相談を持ちかけられることが増えてきた。会った事もない、本名さえ知らない相手に深刻な悩みを打ち明けるというのはどういうことなのか、正直言って戸惑いもあったが、相談されれば親身になって答えた。普通なら決して友達になったりすることはないだろう大学生の男の子と何時間も話すこともあった。対等な友達と変わらない会話はとても新鮮に思えた。

 やがて慢性の睡眠不足に陥るようになる。週末であろうが平日であろうが夜中の2時3時まで、私はチャットをやり続けた。完徹して会社に行くことすらあった。極度の睡眠不足で目は常に充血し、血走った目つきはガメラのように恐ろしかった。いつしかコンタクトが装用不能となり、やむなく自宅専用だったはずのダサダサめがねをかけて出勤することとなる。ざーますおばさん的なピンク縁のめがねから覗くガメラ目は、我ながら鬼気迫るものがあった。

 やがて私は少しこわれてきた。これはすべて仮想の世界なのではないか、と思うようになった。果たしてこの人たちは現実に存在しているのだろうか?みんなパソコンの中に住んでいるのではないか?慢性の睡眠不足も手伝って、私の混乱はひどくなってきた。そして夢と現実の境目がよくわからなくなってきた。

 8月になりオフ会とやらに誘われる。ネットの人と現実に会うなんて超びびった。しかしどういうわけか千葉から大阪まで行くことになる。大阪のホテルで仲間のひとりであるトトロと会うことになり、電話する。
「もしもしはまちですけど、トトロさんですか!?」
「そうよ!あなた、はまち??きゃあー!!」
結構緊張してかけていたのだが客観的に見るとその会話はかなり変だった。トトロは電話に出た。本当に人間の女性の声だった。おおおお!!!ほんとにいたんだ…

そうしてホテルのロビーで対面。ひたすら感激した。トトロはちゃんと人間の姿をしていて、(当たり前か)明るい普通の大阪の女の子だった。難波を案内してもらって、たこやきを食べて、飲みに行って… 初対面なのに前から知っている仲であり、それでいてお互いの仕事のことやらプライベートなことは何も知らず、順番に一から話し出すという不思議さ。けれどもトトロはものすごく親切でフレンドリーだった。友達なんか誰もいないはずの初めて訪れた大阪の町で、私は暖かく迎えられた。東京ならこうは行かなかったかも、と少し思いながら…

 そうして翌日を迎える。今日はついにオフ会である。人見知りで恥ずかしがり屋の私は朝から緊張のあまり倒れそうだった。とりあえず集合は5時なのでそれまでひとり気ままに大阪見物でもしようとあちこちぶらぶらしているうちに、ふと訪れた鶴橋でどういうわけか焼き肉屋に吸い込まれてしまい、私はひとりうれしそうに焼肉を食べていた。しまった、もう5時だ…! 仕方ないので開催場所であるお店に直行する旨連絡を入れ、私は梅田へと向かった。あんなに目立ちたくなかったのに、私は遅れて到着し、全員の注目を浴びることになってしまった。しかも、真昼間から若い女がひとり、鶴橋で焼き肉食うかい!と突っ込まれ、余計目立ってしまった。どうも私の人生はいつもこうだ。

 それはともかく、ご対面大会。ついにみんなと会えたのだ。ケイも、アキラも、サクラも、リュウも、みんなほんとに人間だった。ネットオタクでもなんでもない、普通の若者たちだった。初対面はほんとにおかしかった。うわー、うわー、とお互いに言うだけで、ただ感激の連続。それでいて、どういうわけか敬語になってしまったりして。チャットでは、あんたバカじゃないの、とかさんざん言ってたのに。しかし、東京で生まれ育った私にとって、大阪のノリはすごかった。一見地味でおとなしそうな若い女の子ですら、ちゃんと大阪していた。会話はボケと突っ込みとオチがなければ許されないとは聞いていたけれど、やっぱりここは吉本の本拠地なんだなあとつくづく実感したのである。そうしたカルチャーショックに圧倒され、ひたすらおとなしくしていた私だったが、二次会のカラオケではつい飲みすぎて踊り出してしまい、若い男の子たちに向かって「あんたたちも踊りなさいよ!」と言いながらどついていたらしい……。

 それをきっかけに、それまで異次元の世界のように感じていたネットを通じた人たちとの交流は、現実の世界とつながった。考えてみればそれは最初から当たり前のことだったけれど、この目で確認して初めて現実の中の一部として受け入れることが出来るようになったのだと思う。

 その後私のチャット中毒は1ヶ月ほど続き、やがて仲良しの人とのICQでの会話に専念することになる。そうしていつしか異様なまでのチャット熱もさめていき、普通の時間に寝るおだやかな生活が戻ってきた。今思えば、あれはなんだったのだろう。誰でもかかるはしかのようなものだったのかもしれない。

 
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