- 華麗なる欧州旅行(前編) -

 
それは天から降ってきた幸運、棚からぼた餅、砂漠にオアシス、地獄に仏だった。当時ひとり暮らしで定職もなくバイトのわずかな収入で爪に灯をともすような赤貧生活を送る中、満足な食事すら出来ずわびしい毎日を送っていた私に、ただでヨーロッパ3週間の旅に行けるチャンスが訪れたのである。ただし、コブつきという条件で―――。

 いとこの一郎兄さんが、小学校6年の息子であるユウヤを夏休みにイギリスの語学学校に行かせたいというのが話の発端だった。自分は仕事で忙しいし、彼をひとりでやらせるわけにも行かないので、イギリス留学の経験のある私に一緒に行ってくれないかというのだ。2週間の彼の短期英語コースのあとはふたりで適当にヨーロッパを回って来い、出来ればフランスとかスイスなんかに連れてってやってくれ、と言うのである。旅費や滞在費をすべて出してくれて、おまけに私自身のお小遣いまで10万円出してくれると彼は言った。私は二つ返事で引き受けて、電話を切ったあと金切り声で意味不明の言葉を叫びつつ6畳間の中を狂喜乱舞しながら、これまた国籍不明の踊りを踊り続けた。

 一郎兄さんは関東郊外でレストランを経営しており、かなり羽振りがよかった。離婚したあとは子供ふたりを男手ひとつで育てていた。私はときどきユウヤと彼のとしごの姉であるユキコちゃんに勉強を教えに行ったりしていたが、一回につき、ひとり1時間ずつ教えては一日1万円をもらっていた。その上ものすごいごちそうを毎回出してくれるのだった。私自身子供の頃から彼には可愛がってもらっていたこともあり、何しろ彼には頭が上がらなかった。

 一方ユウヤ本人は父親に無理やり行けと命令されたわけで、かなりいやがっていた。まだ小学校六年生の彼は、英語の塾に行っていたわけでもなく、アルファベットすら満足に書けないのである。そんな子供がいきなり全寮制の語学学校に入ってそれも2週間という短期で英語を習ってどうなるというのだろう。まったくもって親のひとりよがりであった。しかし、そんなことはどうでもよかった。私はうれしさのあまりにかたっぱしから友達に電話しては自分の幸運を自慢した。しかし、相手がまだ帰宅していない時間にかけてコールバックを頼むという貧乏人ならではのこすいやり方を忘れなかった。

 8月の出発日までに、2ヶ月があった。それまでに私はユウヤの学校選びから始まり、フライトや宿の手配をとることになる。やがておおかたのスケジュールが決まった。まずはロンドンへ出発し、イギリス南部の風光明媚な海辺の町にある全寮制の語学学校にユウヤを連れていき、彼はそこで2週間英語の勉強をする。その間私はひとりで遊んでいる。ときたま彼の様子を見に行くという務めがある以外には。そして残りの一週間は仰せのとおり、ふたりでロンドン、パリ、そしてスイスのユングフラウヨッホ、ジュネーブを回って最後にチューリッヒから東京に戻ってくるというものだった。

 なにせすべてが個人旅行である。ツアーなどに比べればかなり割高となる。そこでなるべく安い宿を手配しようとしていた私に、一郎兄さんは言った。「あんまりケチって変なホテルなんか泊まらないでくれよ、金は心配するな、せめて2つ星クラスの宿に泊まってくれ。」と。この人はなんていい人なのだろう。いや、別に私が心配なのではなく子供が心配なのはわかっているけれど。人の親心につけこんで身代金目的に子供を誘拐するというのは憎むべき犯罪であるが、そういう犯罪が発生する理由もわかるような気がした。

 やがて出発の前日となり、一郎兄さんはふたりの子供を連れて千葉県の私の実家にやってきた。明日は私とユウヤを成田まで送ってくれるのだ。彼ら家族と私の家族で夕飯を食べに近所の焼き肉屋に行った帰りのことだった。舗装された道をおとなしく歩けばいいものを、ユウヤが姉とふたりで空き地の草むらの中に入ってはしゃいでいたときのことだった。突然彼は「痛え、」と叫んだ。草むらの中で飛び跳ねた拍子に、なんだか知らないがたまたま落ちていた巨大な釘を踏んづけて、かなり厚いはずのスニーカーの靴底を貫通した釘が足の裏にささってしまったのだった。病院に行くほどではなかったので、家で応急処置をしたが、明日からヨーロッパに旅立つ少年の足は包帯でぐるぐる巻きにされた。なにしろじっとしていられない子供なのである。そしてどういうわけか、間が悪いのである。私はやおら頭が痛くなった。降って沸いたようなラッキーなヨーロッパ旅行ではあるが、すべてはこの子を連れていって無事に連れて帰ってくるという使命あっての、無料の旅なのである。これは予想以上にしんどい旅になるかもしれない、と私は思った。

 翌日の朝私たちふたりは、成田でそれぞれの家族に見送られてロンドンへと旅立った。さて、ここからはユウヤとふたり旅である。
 席につき、程なく飛行機は動き出す。機体は滑走路を滑るように加速していき、離陸も間近である。ユウヤも海外旅行には何度か行っているが、興味深げに窓の外を見ている。一方私は、次第に緊張が高ぶってきた。飛行機の旅は好きなのだが、離陸と着陸の瞬間が恐いのである。顔をしかめて全身がこわばっている私に気づくなり、彼はうれしそうに言った。
 「コトブキお姉ちゃん、恐いの?」
 「うるさい。離陸までは静かにしてなさい。」
 「どうして?」依然として彼は笑っている。
 「いいからおとなしくしてなさい。機長の気が散るのよ!」とわけのわからないことを言い返したりする。
 「なあんだ、コトブキお姉ちゃん、飛行機が恐いのかあ。みんなに言ってやろう。」
私は大事な人質を、いえ、お預りしている従兄の大事な息子を殴るわけにもいかず、くそガキ、と心の中でつぶやきながら、恐怖を必死でこらえていた。
 
 ユウヤは生意気な口も聞くが、どちらかというとシャイで、やさしくて思いやりのある子である。しかし、注意力がなく、なにしろ落ち着きがなかった。かたときもじっとしていられないし、なにしろ間が悪いというか、どんくさいのである。図体ばかりでかく、身長が165cm、体重は70キロと立派だったが、ふたりで歩いていても何故かまっすぐに歩けず、クレヨンしんちゃんのような千鳥足なのである。おまけにいつも飛び跳ねており、しょっちゅう私の足を踏んづけていた。体が大きくてもしょせんまだ自分の身の回りのことも満足に出来ない11歳の子供である。当然そういう面倒も私がするわけであり、まだ30前にしていきなり大きな子供の母親になったような責任感に私は身をひきしめるのだった。

 機内で、私たちの隣に韓国人の女性が座っていた。やがて彼女は私に話しかけてきた。ユウヤを見ながら、「可愛いですね。」と微笑みかける。そのとき私は28、ユウヤは11歳である。おそらく私たちふたりは、親子にしては私が若いし、姉弟にしては年が離れすぎている不思議なカップルに見えたのだろう。曖昧に微笑み返す私に、彼女は尋ねた。
 「お子さんですか?」
 一瞬絶句した私ではあったが、いろいろと説明するのが面倒だったので、そうです、と答えた。どういうわけか、不思議といやな気がしなかった。

 フライトの間じゅう彼は私と遊びたがり、ゲームやらしりとりやらでしばらく相手をしてあげていたが、やがて疲れた私がちょっと休ませてと言って雑誌に目を通していると、しばらくはぶうたれていたユウヤだったが、やがておとなしくなった。寝ているのかな、と思いふと目をやると、彼はペンダントに入れた母親の写真を取り出して眺めていた。
 ユウヤが幼稚園のときに彼の両親は離婚して、母親は福島の実家へと戻った。しかしそれからも学校が休みに入ると、彼と姉のユキコちゃんはふたりで母親の家に遊びに行ったりしていた。私も彼女のことはよく知っていた。今回の旅行の事でも、彼女から連絡があり、まだ子供で手がかかるけどどうぞよろしくね、と言われていたのである。その人は、明るくて、背がすらりと高く、きれいな人だった。そして、ユウヤが大事そうにかばんから取り出したペンダントの中で微笑んでいた。

 ロンドンのヒースロー空港に着くと、学校から迎えが来ていた。そしてバスに乗って学校に到着する頃はすでに夜の10時になっていた。8月だというのにひどく寒い。これからひとりで言葉も通じないところに入れられる彼は不安におびえているようだった。大丈夫だから、心配しないで。毎日一回は電話するからね。そうは言ったものの、やっぱり彼がかわいそうに思えてきた。
 「せっかく夏休みなのに、僕は近所のシンヤ君と遊びたかった…」
彼はぽつりとつぶやく。

 ユウヤの父親は面倒見がよく、明るい行動的な人で、子供をキャンプやら釣りやら旅行にしょちゅう連れていくような良き父親ではあるが、一方しつけに厳しく、彼のいいつけは絶対なのであった。だから、ユウヤはイギリスの語学学校行きをいやとはいえなかったのである。

 ABCもわからないうちに英語学校に入れられるのはさぞかし不安だったろうし、それ以前に11歳の彼にとっては、ヨーロッパ旅行そのものが親から押し付けられた義務でしかなかったのだ。そんなことより近所のシンヤ君とゲーセンやらなにやらで遊んでいるほうがずっと楽しかったのである。一郎兄さんにしてみれば、英語の勉強をするご褒美としてそのあとのフランス・スイス旅行を彼に与えたつもりであったのだが、海外旅行に興味を持つにはまだ彼は若すぎた。結局喜んでいたのは私だけで、彼にとっては試練でしかなかった。

 やがてバスは学校の寮に到着し、彼を預けて私はその場を去った。後ろ髪を引かれる思いではあったが、まあ人間何事も経験が必要だと自分に言い聞かせ、あらかじめとってあった自分の宿へと向かった。

 それからの2週間は、まったくもって自由だった。かつて留学していたときのロンドンの友達を訪ねたり、イギリス北部の方へひとりで旅したりした。ユウヤには毎日電話を入れ、なにか困ったことはないかと尋ねた。そして、2週間のうち3回ほどボーンマスの寮に出向き、ユウヤを連れ出して食事をしたりした。ユウヤは思っていたよりも学校生活をエンジョイしているようだった。学校のキャンティーンで出る食事がうまい、とうれしそうに言っていたのには苦笑した。ユウヤの父親はその昔フランスで修行してきた筋金入りのシェフである。妻と離婚してからというもの家の食事は彼が作っているのだが、彼の作るものは和、洋、中に拘わらず超美味であり、私など涙を流してしまうほど豪華でおいしい。外食にしてもしかりである。それなのに、そういうものを食べつけているはずのユウヤは、食べ物で何が好きかと聞くと、魚肉ソーセージ、と答えるのである。かたや、イギリス料理は何を食べてもまずいということを私は知っている。なにせかつて1年間過ごしたイギリス生活の中で、一番おいしかったのはケンタッキーフライドチキンだった。そして今や彼はキャンティーンの食事を気に入っているのである。子供の嗜好というものは、なんだか知らないけど不思議である。

 英語が話せないなりにも友達が出来たらしい。幸か不幸かクラスには日本人はいないようだが、ベルギー人の男の子と仲良くなったとうれしそうに言っていた。ところで、イタリアのお金僕持ってるんだよ、と彼は財布からお札を取り出した。聞いてみると、イタリア人の高校生の男の子に、お金を交換しようと言われて1000リラと1000円を交換したと言うではないか。確かイタリアリラのレートは日本円の10分の1くらいではなかったか。すると、1000リラはおおまかにいって100円ぐらいに相当することになり、それは子供相手の詐欺ではないか。まったく外国人の子供はけしからん…と思った私だったが、うれしそうにイタリアの紙幣を私に見せるユウヤには言えなかった。ただ、もう友達とお金を交換してはいけませんとだけ言っておいた。

 子供に持たせていいお小遣いの金額は、学校からあらかじめ指示が出ていた。ときたま保護者つきで外出したりするので、欲しいものを買うこともあるだろう。足りているかと聞くと、お金は残っているのだが、コインが欲しいという。学校にある電話が硬貨しか使えないので、あらかじめ持たせていたテレホンカードが使えないらしい。両替を学校のスタッフに頼むのが出来ないという。私は近くの店で紙幣をコインに両替してもらい、電話代にしては相当な額を彼に渡した。私自身も頻繁に彼の両親に電話しては途中経過を報告していたので、彼が父親よりも母親に頻繁に電話をかけていることは知っていた。普段から母親と離れて生活している彼にとって、見知らぬ国でひとりぼっちにされた今、母親に電話することだけが心のなぐさめであったろうと私は思っていた。

 やがて2週間が過ぎて、彼の短期コースも終わり、私は学校まで迎えに行った。先生やスタッフの方々に挨拶をして、ロンドンへと向かう。2時間の列車の旅を終え駅に到着するなり、私はトイレでジーパンからワンピースへと着替えた。ついにあこがれのホテル・リッツにこれから向かうのである。それがどんなに贅沢なことかを知る由もなく、駅の構内で無邪気に飛び跳ねているユウヤを頭からタクシーに押し込みながら、(やっぱ、リッツへの到着はタクシーじゃないとだめでしょう!)私はひとり、ぐへへへへ…と不気味な笑いが漏れるのを押さえることが出来なかった。これまでの2週間、私はひとりで行動していた。つまり、お金をケチりながら友達の家や安いB&Bなどに泊まってはファーストフードで腹ごなしするような―――自由ではあるが貧乏旅行であったのである。しかし今回の欧州旅行のクライマックスはこれからである。ガキ、いえ、金持ちのご子息様を預かっているという大義名分で、贅沢な旅が出来るのである。リッツでの宿泊はその幕開けにふさわしかった。

 しかしまだ私は、ユウヤの本当の威力を知らなかったのである。これから始まる1週間のヨーロッパ旅行がものすごいものになるとは知る由もなかった。
                                                                                                        続く

 
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