- 夢の城 -

 
 ものごころついた頃から甘いお菓子が好きだった。生まれ育った家の近所には、村島パン屋といって製造販売のパンの他にお菓子やケーキも売っている店があった。家からその店に行くには大通りを渡らないといけないのだが、車の往来が激しいにも拘わらず横断歩道には信号がなく、幼稚園児の私はひとりでそこを渡ることは禁じられていた。それでもお菓子の誘惑には勝てず、わずかなお小遣いが入るたびに私はいつも身の危険をおかして通りを渡り村島パン屋に行くのだった。お菓子が大好きな子供、といえば可愛らしいが、与えられたお菓子をおとなしく食べるだけで満足しているような、そのへんの凡ガキとは一緒にしてもらいたくなかった。私のお菓子に注ぐ情熱は筋金入りで、どんな試練にも負けずひとつのものに没頭する心意気は、言ってみれば養う家族がいるにも拘わらず給料を全部飲み代に使ってしまうアル中のおやじとか、妹の結納金を奪ってでも競輪につぎこんでしまうギャンブル狂いの兄ちゃんにも匹敵するものがあった。そう、当時の私は燃えたぎる情熱にかられ、町のあちこちのお菓子屋を渡り歩くさすらいの幼稚園児であった。

幼稚園から帰るとすぐ、夢見る少女ならぬ菓子中毒の幼児は小銭をにぎりしめては走って村島パン屋に行き、店の中にあるすべてのお菓子を一時間くらいかけてなめるように物色しては、手持ちの金額で買える安いお菓子を買い、小躍りしながら帰ってきて、誰にもちょうだいと言われる危険性のない押入れの中にこもり、暗闇の中でひとりほくそえんで食べるのだった。話はそれるが、私には一筋縄では行かない4歳上の姉と3歳上の兄がおり、彼らは私が乳児のときに、親の目を盗んでは私の粉ミルクを盗んでなめていた。ふたりはいつもつるんでは動物をいじめたり材木屋の材木に火をつけたりという悪事を働いていたので、近所でも有名だった。そうして鉄砲玉役の兄が床の上にかがみこみ、知能犯の姉がその上に乗り、棚の上の方にあった粉ミルクを出してはなめているのを私はなすすべもなく見ていた。乳児にして私は世の中の不条理というものを知った。いってみれば私の人生はライオンとヒグマと一緒の檻に入れられた子ウサギのような過酷な環境から始まった。当然生存競争は激しかった。だから、自分の食べ物は自分で守るしかなかったのである。

東京の下町という土地柄、家のそばには駄菓子屋やらもんじゃ焼き屋などもたくさんあり、きょうだいや友達はその類のところによく行ってはうれしそうに食べていたが、私に言わせればチョコレートやビスケットやケーキの置いてあるお菓子屋こそが本物のお菓子屋であり、駄菓子屋は邪道、はっきり言って眼中になかった。だいたい最中の皮みたいな薄いせんべいに、ねばねばしたあんず飴のはさまったやつだとか、あの貧乏臭いベビーラーメンのどこがおいしいのか。もんじゃにいたっては、はっきり言って焼けたXXとしか思えなかった。私は洗練されていた。

村島パン屋のお姉さんはいつもやさしかったが、やっと買うお菓子が決まってレジに持っていくと、
 「コトブキちゃん、今度はもう少し早く選びましょうね。」
と、言うのだった。あとから考えてみると、1時間もお菓子をみつめ続ける私は商売の邪魔だったのかもしれない。
毎日のように信号のない横断歩道を渡ってパン屋に通っていた私の姿はしばしば姉や兄に目撃され、母親にチクられてはひどく叱られた。叱られてもやめないので、しまいに父親にぶたれた。しかし、誰に何を言われようと私はパン屋通いとお菓子の購入をやめられなかった。そこは幼稚園児の私にとってあこがれの、夢の城であった。

家から歩いて20分くらいのところに砂町銀座という商店街があり、母親と一緒によく買い物に行ったのだが、そこにはもっと豪華な、本当のケーキ屋があった。そこに初めて足を踏み入れたとたん、輝くばかりのショーウィンドウに私はくらくらした。きれいにデコレーションされた、この世のものとは思えないおいしそうなケーキがひしめいているではないか。しかし、高い。幼児の私には手が出る代物ではなかった。そのとき私は、小さな胸の中でひそかに心に誓った。いつか大人になってお金が自由に使えるようになったら、このケーキを全部買い占めてやる、と。

それからというもの、私の活動範囲は広がった。砂町銀座にあるいくつかのパン屋やケーキ屋をはしごしては、練り歩くのだ。しかし、さすがに本物のケーキ屋はひとりで入るには敷居が高かったので、店の外からショーウィンドウをじっとみつめるのが関の山だった。それ以外の店では、やはり村島パン屋と同じように、高級なお菓子を手にとっては物欲しげにながめた末に棚に戻し、それを繰り返しては結局安いお菓子を買ってその場を去るのであった。(考えて見れば不気味な子供だったかもしれない。)そうしていつもの通り、押入れの中でひとりで食べるのだった。

あの頃きょうだいや私の誕生日に親が買ってくれたデコレーションケーキは、(今にして思えば)スポンジケーキならぬパサパサのカステラにジャムがはさまっており、まわりには黄色っぽいバタークリームが塗られ、その上には砂糖漬けのプラムだとか黄緑色のマジパンのようなものが乗っかっていた。そんなケーキはいまどき日本中どこを探しても見つからないだろう。しかし、あの頃の私にとってそれは盆と正月が一緒に来たような一大イベントだった。私は夢中で食べた。口のまわりをクリームだらけにして、うれしさのあまり涙にむせびながら。

しょせん幼稚園児が徘徊する行動範囲には限界があったが、いわゆる「高級ブランド品」は母が買ってきてくれたときだけありつけた。そのときどきで、私にとっての一押しとも呼ぶべき一品があった。まずは、錦糸町の駅ビルでいつも母が買っていたバロンというお菓子。卵の黄身が練り込んである白餡みたいなのが薄皮の中に入っているもの。あれは、今食べてもいけてる味だと思う。まだあるのか知らないけど。次に、不二家のプリン、そしてベルンのミルフィーユ、エトセトラ。

やがて小学校にあがり、中学、高校時代という青春時代を経て、私の一押し菓子は変遷をたどる。高級ケーキ屋のケーキももちろんすばらしいが、スーパーでのチェックも怠らなかった。あるときPという名前の半生菓子に凝り、それをくる日もくる日も食べ続けたのだが、ある日ついに食べ過ぎて吐いてしまった。それからPは一度も食べていない。

高校の頃からアルバイトを始めたが、いつもケーキ屋を選んだことは言うまでもない。高校3年から短大時代にかけて、原宿のJというケーキ屋でバイトをしていた。残ったケーキをもらえるので、うれしかった。ある日、神戸出身のバイト仲間から、神戸のHというおしゃれなケーキ屋の焼き菓子をおみやげにもらって食べたときの感動は強烈だった。それからというもの私はHのお菓子を夢にまで見るようになる。それから何年かが過ぎ、友達と神戸に旅行に行ったとき、御影にあるHに私は足を踏み入れた。そこは喫茶店でもあったので、お茶とケーキが食べられる。そのとき神戸に転勤になっていたサークル時代の先輩であるSさんという人がいて、彼が連れていってくれたので、彼のおごりだったにも拘わらず、私は次々ケーキをおかわりして、お皿は積み重なり、回転ずし状態と化していた。彼は、周囲の目を気にしてちょっとだけいやな顔をしていたが、そんなことはどうでもよかった。
その後友人の結婚式が神戸であったため、また私は神戸に行けることになった。東京から行った何人かの共通の友達で、神戸の街を観光して歩いた。その中に神戸出身のHさんという人がいて、彼が車を出してくれたのだ。しかし、行く場所行く場所で私がケーキ屋をみつけては時間をかけてあれこれ買うために、彼はしまいにイライラしだし、しまいに私を芦屋のHに置き去りにして次の目的地へと出発してしまった。あこがれのHでおみやげをたくさん買い、生ケーキを誰にも気兼ねなく食べられて、私は幸せだった。その間彼らはいろいろときれいな場所を観光していたらしいが、そんなことはどうでもよかった。

当時、Hのお菓子は神戸でしか買えなかった。それから数年を経てHは東京のデパートにも進出する。それが東京でも流行り出した頃には私の一押しは別のブランドに変わっていた。私は常に一歩先を行っていた。何回も言うが、私はレベルが高いのである。

30才を超えた今でも、ケーキや洋菓子に対する私の情熱は褪せることはない。デパートの地下に一度足を踏み入れると、蛍光灯の中にまちがって入ってしまったハエのように、ケーキ売り場のまわりをぐるぐる回りつづけ、出られなくなってしまう。(さすがにもう大人なので、30分ほどでたいてい出られる。)

時代の流れの中でお菓子も進化し、それに従って人の味覚も洗練されていく。ジャムサンドのカステラとバタークリームで出来たデコレーションケーキは今は昔、今日ではおいしいお菓子やケーキは巷にあふれている。生チョコやらなめらかプリンなどがコンビニでも売られ、欧米からの輸入菓子も輸入食品のスーパーやらデパートなどでたやすく手に入る。そんな中で、私はふと愁うのである。いつ頃からだろうか、感涙にむせび泣くようなおいしいケーキになかなかめぐりあわないと思うようになったのは。デパートの地下やら、青山や代官山にある数あるおしゃれなケーキ屋の、どこのケーキを食べてみてもそこそこおいしいのだけれど泣けるほどの感激がない。悲しいかな、おいしいものに慣れてしまったのである。

と、そんな私が、ふとしたことからまたも神戸のMというケーキ屋と運命のめぐりあいを果たすことになる。ある日、自宅でいただきものの焼き菓子を食べたときに、あまりのおいしさに忘れていた感動がやおら蘇った。しばらくしてまた神戸に旅行する機会が出来た私は、そのケーキ屋の住所と地図を頼りに駅からえんえんと坂道を登り、山の手にある、かのあこがれのMに遂にたどり着いた。ああ、そこはまさしく、幼年時代にあこがれていた夢の城の再来であった。私は気がふれたようになり焼き菓子やら生ケーキやらを買いまくり、泊まっていたホテルに戻ってから生ケーキをいっきに三つ食べた。涙が出るほどうまかった。そして、次の日も足を運び、焼き菓子をしこたま買い込んで家まで持って帰ってきて、誰にもあげないでひとりで全部食べた。(きょうだいはすでに結婚して家を出ているので、もう隠れる必要はない。)

それからというもの、関西方面に行くたびに必ずそこに行くのだが、いまだに私の中ではそのケーキ屋が一押しであり、ダントツトップの座を譲らない。そうして、行く度に焼き菓子をたくさん買ってはおみやげに持ち帰ってくるのだが、友達にもそこのお菓子は大好評である。(ひとり3個くらいしかあげないが。)しかし、今住んでいる千葉から神戸は遠い。なかなか行けないと思うと恋しさはつのるばかり。東京にも支店が出ればいいのに、と思うのだが、やはりそのまま神戸だけにあってほしいとも思う。関東の人たちに知られぬまま、私だけの夢の城であってほしいと思うからである。

                                                                             猫河原寿

 
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