- 人物照会 -

 
 人事担当の仕事をしたことはないが、長いOL生活をしていると、何回かは会社でこういう電話にでくわすことがある。照会とかレファレンスとかいえば聞こえはいいが、まあ、言ってみれば調査と言ったほうがぴったり来るだろう。その会社に勤めている人、あるいはかつて勤めていた人について、「どういう人でしたか?」と照会が来る、あれである。

 最初にそういう電話を受けたのは、新卒で就職した会社で、まだ入社2年目だった頃である。それは、同じ支社にいた先輩の女性社員に関する、彼女の縁談相手の母親からの電話であった。
 たまたまとった外線で、電話の相手である中年の女性は言った。
「そちらにNさんという方がいらっしゃいますよね?」
「ええ、ただいまおつなぎします。」
私がそう答えると、電話の相手は慌てた様子で言った。
「いえいえ、つないで下さらないで結構です。」
「は?」
「実は…Nさんと宅の息子に縁談がありましてね…、それで、Nさんはどういう方なのかと思いまして…・」
(ええっ… とんでもない電話をとってしまった…)

 まだ20歳そこそこで社会経験も浅い私はうろたえた。いやしかし、私がうろたえた本当の理由は、そういう電話をとってしまったこと自体ではなく、なんと答えていいかわからなかったことである。Nさんという人は、20代後半の先輩であったが、(その会社は封建的な会社で、女性が多く、上下関係はかなり厳しかった。)実はかなり意地悪で、後輩いじめはするわ、自分勝手だわ、あいさつは決して返してくれないわ、仕事はいいかげんだわ、人に責任をなすりつけるわ、ひどい人だった。かくいう私も理不尽ないじめに泣かされたことのあるひとりだった。一見美人風にも見えるが、その目はつりあがっており、いかにも意地悪な内面が明らかに顔にも出ていた。私と同期入社の仲間うちでは、Nさんはいつも恐怖の対象であった。

 さて、どう答えたらいいのだろうか。真実を告げるべきか。
 いやいや、そんなことを考える余裕は、コワイ会社で日々小さくなっておびえる下っ端の私にはなかった。なんたって当時の私はまだ社会人2年生で、社会に蔓延する妬み、嫉妬、悪意、そういうものに免疫力すらついていない、純真な若い女の子だったのである。日頃のうらみをここで晴らしてやると、ここぞとばかりに悪口をいいつけるなどという余裕も発想もなかった。
結局仕方なく、誉め言葉を探してみたあげく、(実際彼女には誉めるところなんか地球の裏側まで探しにいってもなかった。)こともあろうに事実とまるで反対のことを言った。
「Nさんは後輩思いの、責任感のある方です。」などという大嘘を。
電話の相手の女性は、
「まあ、そうですか。」と言って、安心したように電話を切った。
しかし、その後Nさんが結婚するという話は何年も聞かなかったので、おそらくその縁談はうまくいかなかったのだろう。

 今にして思えば、私も若くて純粋すぎた。あんな人を意味もなく誉めることなどなかったのだ、と思ったのはずいぶん後になってからである。
 Nさんの傍若無人な振る舞いを見るにつけ、あのときのことを後悔したものである。
 「あんな人をお嫁さんにもらったら親戚中の面汚しですよ。」なんていうのは極端としても、今ならもう少し客観的な事実を伝えるだろうと思うけれど。
 それにしても、Nさんの人柄は別としても、ああやってやみくもに誰が取るかわからない場所にいきなり電話をかけてきて社員の評判を聞くなんて、ずいぶん無理がある行為だなあ、とつくづく思ったものである。だいたい、人の評価なんて、相手次第である。電話をとる相手によって誉められたりけなされたりもするだろうに。

 それから10年以上がたち、私は外資系の会社に転職していた。ある日、またその類の電話をとる機会があった。今度はある会社の人事部からであった。照会される側の人物はMさんという男性であり、彼はもう3年以上前に私の会社を辞めていたのだが、そのとき彼が応募していた会社の人事担当の人が、Mさんを採用するかどうかの段階において、彼のかつての勤務先であるうちの会社に照会してきたのである。
 私はMさんのことをよく知っていた。
 彼は明るくてソツがなくて、社交的なタイプの、30歳くらいの人だった。彼が中途入社で入ってきたときに、どちらかといえば暗い感じの会社の雰囲気は一気に明るくなったものだ。その一方で彼は、かなり自信過剰気味のところもあり、多少生意気な部分もあったので、敵も作りやすいタイプだった。

 その会社のトップはFさんというGMだった。この人がまた厄介な人で、彼のアシスタントをしていた私は、ほとほと手を焼いていた。彼の無能さ、部下を人間とも思わない扱いに日々ストレスを感じ、やがて頭痛や耳鳴り、顔面神経痛というあらゆる身体的な問題を起こすようになったほどである。一方Mさんは、上司に向かって臆すことなく意見を言うタイプだったので、あるときそれがFさんの機嫌をそこねた。それからFさんはMさんにことごとくいやがらせをするようになった。Mさんも負けていなかったが、トップがそういう人柄でおまけに無能と来ては、自分自身の行く末に不安を抱いていたようだった。

 そんな折、ミーティングの席で、Fさんは私を激しく叱責した。別の部署のKさんという人からの依頼を私が承諾したことを、一方的に責めたのである。しかし、それはもともとうちの部署でクライアント向けに行うイベントに使うプレゼンテーションに関することだった。Fさんが気分を損ねたのは他でもなく、自分よりずっと若いのに評価の高いKさんが大嫌いだったのである。あるときFさんがしかるべき対外的な対応を怠ったためにKさんがそれを批判したことがあって、それからというものKさんを目の仇にしていたのである。

 私は部内のみんなの前で、理不尽な理由で一方的に叱責された。周囲は例え事情を知っていても、いつも誰も助けてくれない。そんなときだった。思い余ったMさんが私をかばって、Fさんに言ってくれたのである。
 「何を言ってるんですか。これはうちのイベントのプレゼンじゃないですか。情報を提供してくれるKさんに協力してはいけない理由がどこにあるんですか!?それじゃあ彼女が板ばさみじゃないですか!」
 外資系にありがちな、冷たい会社だった。それまで誰も私を助けてくれた人はいなかったけれど、Mさんのこの発言に私はびっくりした。それと同時に、彼の正義感に感謝した。
 それからというもの、FさんのMさんに対するいやがらせはエスカレートした。やがてMさんは自分の将来に不安を感じ、他の会社に転職したのである。

 それから3年が過ぎ、ふとMさんの噂を耳にした。彼が転職した会社で、配属された部署で専門的かつ高度なスキルが要求される仕事についていけず、辞めさせられたというのである。同じ業界というのはかくも狭いものである。そんな折、うちの会社のAさんという年配の人にMさんから連絡があったという話を聞いた。なんでも、仕事が見つからずに困っていたらしい。どこか紹介してくれないか、と頼んできたというのだ。気の毒に、と思ったが、個人的なつきあいも特にない私はどうするすべもなかった。

 私がその電話を取ったのはそんな折だった。
 電話の主は言った。
 「実は採用の最終選考で、Mさんが残っているのですが、彼は御社をたった1年で辞めていますね。何か人間関係の問題でもあったのですか?」
 私はすかさず答えた。
 「そういった問題など全くありませんでした。Mさんはとても有能な人だったので、より自分のキャリアを生かせる会社から誘われたと聞いています。」
 それからほどなくして、Mさんがその会社に就職したという噂を聞いた。なんでも新しいプロジェクトの主要なスタッフとして活躍しているらしい。
 よかったな、と私は思った。そして、「情けは人のためならず」という諺を実感していた。

 
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