- ただいま -

 
今日では、韓国はもっとも多くの日本人が海外旅行に訪れる国のひとつとなり、テレビや雑誌では韓国の文化、食べ物、風習などがひんぱんに紹介されている。サッカーのワールドカップ日韓共催や、韓国での日本文化の開放も手伝って、ますます韓国は日本人にとって身近な国になってきた。

しかし、長年「近くて遠い国」と言われつづけた隣の国である。その文化や人々の暮らしが身近になってきたのも、つい最近 ―― ソウルオリンピックが開かれた1988年くらいからではないだろうか。そして、韓国料理がブームになりはじめたのも、ほんのここ10年かそれくらいのことだと思う。

私が初めて韓国を訪れたのは23歳のときだった。もうかれこれ15年ほど前のことである。その当時は、若い女性が観光で韓国に訪れるというのはかなり珍しかった。私と友人のIさんは、どこにいってもじろじろとみつめられたものである。ホテルで出会う日本人といえば、出張で来ているビジネスマンか、あるいは、何が目的だか、おじさんたちのツアーがほとんどだった。そして、そういう人たちほど、お土産屋で、レストランで、韓国の人々に対し横柄な態度でえばりちらしていたものだ。

ここで話は私自身のバックグラウンドに遡る。
私は元在日韓国人二世の父親と日本人の母親、そして日本国籍を持つ韓国系日本人である。
父親の出自は、小学校六年のときまで知らされていなかった。
幼い頃は、埼玉県にある父親の実家を家族でよく訪ねたものだった。お盆や正月、そしてどういうわけか一年に何度も行われるチェサ(法事)。(韓国の家庭では年がら年中法事をやっている。おじいさん、おばあさんだけでなく、その上の代とそのさらに上だったけか、忘れたが、何代も先の祖先まで法事をやるのである。それも、どういうわけだか夜中の12時から始まる。)そうしてその家を訪ねるたびに、たくさんの韓国料理が用意されており、私たちはそれを食べるのが楽しみだった。
なにせその頃(昭和40年代)では、韓国の家庭料理など在日韓国人家庭でしか食べられていなかったと思う。父親の実家の食卓に並ぶ料理を、それ以外の場所で食べることは決してなかった。

私が小学校にあがった年に、父親が実家の伯父と、とあることで対立し、それから本家との行き来はなくなり、それ以来韓国料理を食べることはほとんどなくなった。日本人の母は、ときたま父のために韓国のおそうざいを作ることはあったけれども、それはしょせん日本風の味付けであり、本物とはちがっていた。

やがて私が高校生になった頃、父は伯父と和解し、また本家との行き来が始まったが、世代交代もあり、もうあの頃のように韓国のお惣菜が食卓をにぎわすことはあまりなくなっていた。本家の伯父一家も日本に帰化する道を選び、チェサももうやらなくなっていた。そうして幼い頃に食べていたあの味は、記憶の底に追いやられたまま私の中で封印されたのだった。

それから数年後、23歳で私はついに第二の祖国の地を踏むこととなる。言い様のない興奮と不安に高鳴る胸を押さえ、友達のIさんとふたりでソウル三泊四日の旅に出た。ソウルの金浦空港に到着したときには、なんともいえない感動で胸がいっぱいになったものだった。
私は人知れず心の中で、
「ただいま。」
とつぶやいた。

Iさんは、お父さんがかつて韓国の大学で日本語を教えていた関係で、韓国へは何度も訪れていた。ホテルに到着すると、早速Iさんのお父さんの元教え子のコンさんから連絡が入り、夕食に誘われる。
30歳くらいの男性のコンさんと一緒に現われたのは、まだ大学を出たての典型的な韓国美人のイーさん。驚くほど日本語が達者なふたりに案内されて、ソウル郊外のひなびた雰囲気が漂う町の食堂街へと向かった。そこはなんとも昔懐かしい雰囲気であった。立ち並ぶ家屋、食べ物の匂い、そして「昔私はここにいた」と強く思わせる独特な空気は、あの頃の父の実家と合い通じるものがあった。部屋の隅ではおばあさんが生肉をはさみでチョキチョキと切っている。ああ、あの立て膝が懐かしい。昔本家でハンメ(おばあちゃん)がいつも膝を立てて座っていたっけ。髪の毛は真ん中できっちりと分けていたっけ。あのおばあさんみたいに。

小さい頃本家に行くと、ハンメはいつも母屋の掘りごたつに座っていた。そして、私を見るなりにこにこと笑いながら、
「ミヂゴ、ミヂゴ」と私の名を呼んだものだ。
ハンメは私にみかんをむいてくれた。ほおずりしてくれた。兄にいじめられて泣いていた私を抱きしめてくれた。ハンメと何を話したのかは覚えていない。ハンメは私の知らない言葉を話していたから。けれどもいつだって、会話をしていたような記憶が残っているのは何故だろう。

小学校にあがった頃、ハンメはもうそこにはいなくなっていた。
「ハンメはどこに行ったの?」私が母にたずねると、
「ハンメは自分のふるさとに帰って行ったのよ。」と母は答えた。
「ハンメのふるさとはどこなの?」とさらに聞くと、母は
「遠いところ」
とだけ答えた。

私は彼女が自分の祖母だとは知らなかった。いや、そういう認識がなかった。
幼稚園くらいの子供が祖父母をおじいちゃん、おばあちゃんと呼ぶ。実際に彼らを自分の親の親だと認識する前から、そういった呼び名で呼んでいる。やがて、おじいちゃんとかおばあちゃんというのは自分の親を生んだ人なのだという、「社会に共通した」事実を自分のケースにもあてはめて、自然に認識するのだと思う。
しかし、彼女は私にとっては一度も「おばあちゃん」ではなかった。「ハンメ」というのは韓国語で「おばあちゃん」という意味だが、私に父方の「おばあちゃん」はいない。けれども、かわいがってくれた「ハンメ」がいる。

やがてコンさんが注文した料理が次々とテーブルに並ぶ。炒め物や、チヂミ、野菜料理、そして薄く切ったトック(餅)の入ったスープなどを頂く。その瞬間に私の味覚が敏感に反応した。(今風の言葉で言えばフラッシュバックとも言うべきか。)長年封印されていたあの味、そう、それはまさしく「食べ覚えのある味」だった。
泣けてきた。涙をぬぐいながら、しかしそのまま食べつづけた。コンさんとイーさん、そして友達のIさんは目をみはった。コンさんは笑いながら、
 「ミチコさんはよっぽどおなかがすいていたんですねえ。」
と言った。

Iさんは、韓国とつながりが深いわりには、韓国料理が苦手だった。特に、にんにくの利いた食べ物を食べるとおなかを壊してしまうのである。しかし、ごちそうして頂いている手前、食べられませんと言って残すわけにもいかない。すがるように私を見つめるIさんの視線を感じながら、私は十分彼女の分まで食べてあげた。あとで感謝されたのは言うまでもない。

次の日もその次の日も、Iさんのお父さんの知人から次々とホテルに連絡が入り、私たちふたりはいろんな場所に連れていってもらった。なにせ韓国の人は親切である。どこに行ってもごちそうしてくれて、私たちはただただ恐縮するばかりであった。そうして初めて祖国を訪ねた旅は、Iさんのお父さんの知り合いの人々のおかげでこの上もなく楽しい想い出となった。そして、日本育ちで、韓国のことを何も知らない私にも、自分と韓国のつながりのようなものが少しだけ現実的な形でかいま見えた。

在日韓国人家庭には、韓国の文化のきれはしがそこここにある。それは食事であったり、日本語のはしばしに混ざる韓国語であったり、ふとした風習のちがいであったり、あるいは、「生活の匂い」であったり。
歴史的な背景から、また社会的な背景から、それらはひとつひとつの家庭や一族の中に、あるいは閉鎖的なコミュニティーの中にのみ受け継がれて来た。そして、一歩外に出ると、そうしたものたちは姿を消し、彼らは日本人の日本文化に呑み込まれる。
在日韓国人の中でも、私のように、子供の頃に自分が韓国人であるという事実を知らされていなかったという人は多い。それでも、育った環境の中で肌で感じた文化や匂いは、体のシステムにインプットされているのである。

韓国の地でふと私は思った。
行動範囲のすべての空間の中でたったひとつ、本家という、私を父の国とつなぎとめる場所がかつてあったことを。そこは韓国人としての私をそのまま受け入れてくれる唯一の場所であり、韓国という見知らぬ祖国にいつかいざなう扉がそこだけに開かれていた。
そして、私の祖先の半分が、ここで生まれては死に、私という人間をこの世に送り出してくれたのだと。そして、彼らの眠るもうひとつの祖国に、私は今帰って来たのだと。

 
エッセイの、無断転載を禁止します。
すべての著作権は猫河原寿に帰属します。
このページはレンタルサーバ、ドメイン取得のWISNETが企画運営しています。


Copyright © 猫河原寿 All Rights Reserved.