- 企業間カルチャーギャップ -

 
新卒で入社した生命保険会社は、きわめて封建的で、規律が厳しい会社だった。
支社に配属され営業事務についた。仕事は忙しく、上下関係も厳しかった。すべての作業はマニュアル化され、はみ出すことは許されない、いや、ありえなかった。新入社員は最初戸惑うが、厳しい洗礼を数回受けていくうちにやがては「同じ顔」をした組織の一員となる。
朝は9前に始業開始。遅刻などという言葉は存在しない。しかし目覚まし時計を使ったことはなかった。前の日にどんなに夜更かししても、6時ぴったりには目が覚めるからである。それだけ、毎日が緊張の連続だった。
そして、会社とはそういうものだ、と信じていた。

それから10年が過ぎた。退職、語学留学を経て、スキルアップの学校に通いながら、しばらくの間派遣の仕事をすることになる。初めて派遣された先は、とある出版社の子会社である小さな広告代理店だった。

そこでは家庭用品などの通信販売の広告を雑誌に出しており、お客さんからの注文の電話がかかってくる。私はその受注とメーカーへの発注の仕事をまかされた。
派遣社員は私のほかにもうひとり、石田さんという経理担当の40代の既婚女性がいた。石田さんは明るくておおらかなさっぱりした人だった。その他は社長を含めて男性社員が5人。
しかし不思議に思うことがあった。始業時間は9時なのにも拘わらず、石田さんはいつも9時20分から30分の間に出社する。もしや、彼女は私とちがい9時半出社の契約なのだろうか? と、何げに思っていたが、ある日事実が判明した。派遣社員が派遣会社に提出する勤務報告表というのがあるのだが、机の上に置かれていた石田さんの報告表を私は目にしてしまった。
出勤時刻は毎日9時と書かれているではないか。彼女は毎日平気で遅刻をしていたのだった。それも涼しい顔で。なおかつ、ズルの報告をしている。
私の驚愕はそれだけではすまなかった。
ある日のこと、いつものように石田さんが9時半ぎりぎりに出社してくる。そして、席に着くなり
「あーあ、おなかすいた」
と言いながら、バッグからパンの袋をガサガサ取り出したと思いきや、社員の人たちもいる前で大口を開けて食べ始めたのである。
平然と遅刻をし、そのくせ9時出社と嘘偽りの報告をし、おまけに朝一番からパンを食べるとは!!!それも3つも!! 私はクラクラして倒れそうになった。
ちびまる子ちゃんのマンガに出てくる登場人物のように、額に縦線を入れておののく私に、彼女は言った。
「よかったら、あなたもひとつ食べる?」
(あぅ)
私は思わず椅子からずり落ちた。

しかし私にとってさらに「ここは会社なのか?」と思わせたのは、それを見て眉をひそめる人も咎める人もいないことだった。社員のおじさんたちは何食わぬ顔で新聞を読んでいる。いや、朝だけではないのだ。一日中席で新聞や雑誌を読み、世間話をしているのだ。中でも一番のおしゃべりは石田さんで、朝から晩までおじさんたちとしゃべっていた。たまに目が合うと、話にひきずりこまれ、むげにすることもできず、多少は彼らの相手もしなくてはならなかった。聞こえないふりをして仕事に没頭していると、
「ネコガワラさんは仕事の鬼だねえ。」
と、ふと後ろからつぶやくおじさんの声が聞こえる。
「そうよ、たまには息抜きもしなくちゃだめよ。」
とおにぎりを食べながら石田さん。
(おい! まだ2時じゃないかっ!!さっきチャーシューメン大盛りと餃子2人前食べたばっかりじゃないかっ!!)
私の頭を抱えて絶句するしかなかった。

そんなこんなでなにかと最初はイライラしたが、一方で自由な雰囲気に救われた点もあった。
まず、「お昼休みを必ずしも同僚と取らなくてもいい」ということ。石田さんはお弁当のときもあったし、私や隣のオフィスの系列会社の人たちと行くときもあった。石田さんもその人たちも、外に食べに行くときはいつも「一緒に行く?」と誘ってくれたが、それを断ったからといって角が立つ、ということはなかった。必要以上の協調は要求されなかった。
社内でプライベートなことを詮索されるようなこともなかった。女性を「女の子」呼ばわりするような人もいなければ、高圧的にものを言う男性もいなかった。やはり業界柄、社会の常識みたいなものの変遷に敏感で、ある意味かなり進歩的だったのだろう。
そこには3ヶ月しかいなかったけれど、辞めるときはみんなで送別会をしてくれた。カードを添えた贈り物までいただいた。(あの会社、もうないだろうなあ。)

保険会社のあとに勤めたのが広告代理店だったというのはあまりに極端であったが、その後もまたちがう角度から企業体質のちがいを垣間みることになる。

派遣で次に勤めたのは、外資系の商社。英語が飛びかい、忙しくて活気のある職場だ。社員の人たちは親切でやさしかったし、職場の雰囲気も自由だった。印象的だったのは、男女平等なこと。女性の管理職がたくさん活躍し、誰もがまわりを気にせず自分の仕事をやっていること。ミーティングでも役職に関係なく意見をいうこと。一方で自己責任はしっかり与えられていて、派遣社員といえどもまかされた仕事は最後まで責任を持ってやることが要求された。
しかしやっぱりカルチャーショックはあった。誰かが休んだときに、誰もカバーする人がいない、という状況がしばしば発生する。海外の支店から問い合わせが入ろうが電話でジャンジャン急き立てられようが、
「担当者は今日休みです。明日は来ると思います。」
その一言ですませてしまう大胆さ。相手も素直にあきらめるからなおさらビックリだ。結局、仕事は個人個人がかかえていて、その人がいなければすべてがストップするらしい。どうも、チームワークという点で弱いようだ。個人主義はよいが、会社として支障が出ないわけはないだろうに。
バックアップの弱さはあるにしろ、誰もが自由に休暇をとっていたのはまたまた新鮮な驚きだった。平気で2週間も! それも周囲に悪びれもせず、当然の権利として。
生保にいた頃は、休暇は罪悪とされていた。夏休みをおそるおそる ― それも土日をはさんでせいぜい連続5日間取り、周囲にはこれ以上ないというほど気を使い頭を下げるのは、例えて言えば砂漠で喉がカラカラになって死にそうなグループの中で、ひとりだけヘリコプターに乗って生ビール大ジョッキを飲みに行くような気分だった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、すぐ戻ってきます。ああ、ごめんなさい。」と言いながら。
あれは一体なんだったんだろう。

他にもカルチャーショックはあった。
朝社員から電話がかかってきて、
「今日僕、自宅で仕事するから。」と言われる事。
職種にもよるのだが、海外とのEメールでのコンタクトや出張のレポートを書くのは自宅のパソコンでじゅうぶん用が足りるらしい。雨の日ほど、こういう人は多い。
確かに理にかなっている。しかし、前の会社にいたときの、「具合が悪かろうがなんだろうが、はってでも会社に来い。それも9時前に。」という強迫観念に似た義務感から考えると、それは目からウロコ、だった。
仕事がひまだろうがなんだろうが休暇は取るな。定時になって仕事が終わっていても、他の人たちが残っていれば残りなさい。協調が大事だ。
あれは一体なんだったんだろう。

その後もいくつか派遣の仕事をするたびに、業界ごとに特有の雰囲気があるというのを身をもって体験した。貿易会社。船会社。外資系企業。こてこての日本企業。社風はさまざまである。いつしか気づいていったことは、当たり前のことであるが、「すべてのスタンダードというものは存在しない。」ということだった。

もうひとつはっきりわかったのは、最初に勤めた会社で「これが本来あるべき姿だ」と信じていた仕事の姿勢が、実は必ずしもそうではなく、一方では大きなひずみを生み出していたこと。
大企業の中でがちがちに管理されたシステムの副産物ともいえる大きな無駄。必要以上に形式を重んじる体質の裏側の非効率。意見をいうことも、はみ出すことも許されない環境の中で社員を管理することにより、個人の能力を閉じ込めて、応用が全くきかない人材を多量に養成していく恐ろしさ。休暇は罪悪であるという洗脳。(2001年の現在でも、同社では今だにそうだというからあきれてものが言えない。)

退職して数年たったときに、用事があってかの会社をたずねた。そこで会った元上司と少し話をしたときに感じたのは、この人はこの会社以外の常識を知らず、これから先もずっとそうなのだろう、ということだった。しかし、その場所に一生いるのであれば、何の問題もないのだ、というのも事実だった。
けれども、あれからさらに数年。時代は変わった。
新卒で入った会社に定年までいられるという保障はもうない。時代が時代なら守り一辺倒でいったはずの人々も、これからはそうはいかなくなるだろう。
厳しい時代だが、それでもあえてポジティブな見方をすれば、いろいろな環境に出くわす機会が出来るのはいいことではないだろうか。当然苦労もあるだろうが − ひいてはそれが人間としての幅を広げるのだと信じたい。


 
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