- 喫煙の呪い -

 
私は愛煙家である。
どこに行くにもタバコと一緒。
誰に何を言われようと、私の生活はタバコなしでは成り立たない。
ひと仕事する度に一服。
食後も必ず一服。
イライラしたらすかさず一服。
リラックスしているときも一服。
結局寝ていないときはいつも一服。
夜更けでも、タバコが切れると落ちつかず、着替えてでも買いに行く。
なにはなくともタバコがないとだめ。
依存症というよりは、れっきとした中毒。

そんな私に転機が訪れた。
今から8年前に、父親が肺癌で、余命数ヶ月と宣告された。
初めての禁煙決意。
そう決めたとたんに、嘘のように簡単にやめられた。

私の生活は一転してタバコから解放される。

うれしかったこと。
マクドナルドで、ドトールで、禁煙席に座ること。(当時まだスタバはなかった。)
ああ! なんという優越感。
別に、タバコをやめたからといってタバコの煙がとたんに嫌いになったわけではない。だから、禁煙席だろうと喫煙席だろうとどっちでもいいのだけれど、なにがなんでも禁煙席に座りたいのだ。そうして、優越感に浸る。喫煙者として長年肩身のせまい思いをしてきた過去の屈辱を埋めるように。

それからは喫煙からすっかり解放され、心身ともに健康な日々を送ることになる、はずだった。

しかし。

そう簡単にものごと運べば苦労はない。
なにしろ食欲が増して増して、食べる量がハンパじゃなく増えた。
1日にごはんを3合炊き、それを全部食べるだけでは飽き足らず、食事のあとには必ず菓子パンやらケーキやらを食べ、それでも足りない日にはコンビニ弁当まで買って食べた。
もともと太っている私なのに、さらに太っていった。
3ヶ月後には8キロ増。
すでに足が組めなくなっていた。
どうでもいいけど、体が重い。
駅の階段を登る度にゼイゼイ。
洋服はもうウェストゴムのものしか入らない。
着られる服の組み合わせは二通りくらいしかなくなり、仕方ないからそのふたつを毎日交互に着て会社に行く。
鏡に映る自分の姿を見るのが怖い。
日々成長が止まらない。
私はどうなってしまうのだろう。
そうして、今度はダイエットを決意した。

米飯をなるべく控え、野菜中心の食事に切りかえる。
ケーキも我慢して、フルーツをとる。
すると。
今度はむしょうにアルコールが欲しくなる。
普段家で飲むことなどめったにない私が、毎晩晩酌するようになる。
最初は缶ビール1本程度で済んでいたのが、次第に酒量が増え、しまいには毎晩のように缶ビール2、3本にワインを1本開け、飲み干す始末。
ボトルが空になる頃には酩酊し、泣きながら友達に電話をかけまくるようになった。
夜中を過ぎれば、日本の友達にはかけられないので、時差のある外国の友達にまであちこちかけまくる。そして、わけのわからないことをギャーギャーわめきたて、泣いて、一方的に切るていたらく。しまいに国際電話料の請求書に失神寸前。

タバコ、食事、アルコール。
この三つの要素は正三角形を成していて、そのどれかでも無理やりひっこめると他のどこかがでっぱってしまうのだ。
タバコはやめたい。
でも、それと引き換えに、20キロくらい太ってしまいに飛行機のトイレに入れなくなっても?
アル中になって給料がそっくり酒代にかわるようになっても?
果たして。
もはや今の私にとって、「喫煙者に戻る」という選択が、精神衛生と身体の健康のバランスから考えても、もっとも健康的なのではないか。

そうして、初めての禁煙は3ヶ月ではかなく終わった。

思えば、人生の半分以上にわたり喫煙をしているのだ。
そう簡単に「タバコを吸ってなかった頃の生活」に戻れるわけがない。
禁煙失敗を経て、私は知った。
これはニコチン中毒というより、ニコチンの呪いだ、と。

私の健康を心配して、やめなさいと言ってくれる人たちの言葉に耳を貸さず、吸い続けた。
喫茶店で、レストランで、いたるところで、ノンスモーカーに迷惑をかけ、それでも気づかないふりをして吸った。
そうして喫煙歴にもかなりの年季が入った今になって、そう簡単にニコチンの呪いから逃れられるはずがない。
悪い組織に身を置いてしまった人が、そう簡単には出られなくなるように、長年続けてしまった喫煙という恐ろしい習慣から足を洗うためには、なんらかの落とし前が必要なのだ。
ああ、誰か助けて。

それから8年が過ぎた。
2002年の秋に、私は人生2度目の禁煙にトライする。
理由はいろいろあるけれど、主には下記の通り。

1. 春先にひどい風邪を引いて喉はヒリヒリ鼻は思いきりつまり食べ物の味もわからないというのに、それでもタバコを吸ってしまう私は人間のクズだと思った。
2. 風邪が治っても恒常的に咳が出る。痰も出てカアーッとオヤジみたいに吐き出す恐ろしい女。
3. 喫煙者がまともな人間扱いされなくなって久しいが、もういい加減まともな人間になりたい。いえ、まともな人間として扱ってもらいたい。
4. インターネットのとあるサイトで、嫌煙者たちがヒステリックに喫煙者を糾弾しているのを目撃。もはや喫煙者に人権はないのだと悟る。

そして2度目の禁煙。
前回と同じような快調な滑り出し。
しかし、前回の苦い思い出があり、油断は禁物。

3日で禁煙願望は消える。
しかし便秘は禁煙2日目から早速始まる。
だんだんと食事の量が増える。
1ヶ月経過。
明らかに私は太った。
ズボンが入らない。
まずい。
それでも食後にはどうしても菓子パンを食べてしまう。
日々食べ方がヒステリックになっていくようだ。

1ヶ月半経過。
何キロ太ったのか体重計がないのでわからない。
はけるズボンがなくなったので仕方なく買いに行く。
2サイズ上のパンツを2本買う。
なんかちょっと、いやな感じ。

2ヶ月経過。
どうもワインがうまい。
チーズをつまみながらひとり用の小さいボトルを開けるのが至福の楽しみ。

ますます危険な予感。

そう、このエッセイを書いている今こそが、禁煙2ヶ月経過地点なのだ。
呪いは解かれるか?
それとも激ぶとり、アル中、あるいは喫煙復活という魔のトライアングルに再びはまるのだろうか?

いや、私は闘う。
喫煙の呪いから逃れるその日まで―――。



2002年11月

 
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