- 先生、ありがとう -

 
小学校の担任の先生が亡くなったらしいと風の噂に聞いた。
卒業以来かれこれ20年以上の月日が経っている。
その間、クラス会で会ったことすらなく、年賀状すらもろくに出さずじまいだった。
悔やんでも遅い。
お世話になったご恩をきちんと返さないまま、その人は旅立ってしまった。
もう二度と会えないなんて。
先生。

池田時男先生は、私に初めて「自信」を教えてくれた人だった。

三人きょうだいの末っ子だった私は、両親から手放しに甘やかされて育った。
しかし、家の中ではお姫様でも、外に出るとどうも勝手が違うらしい、と子供ごころに思ったのは「よその人」の私を見るいぶかしげな目つきだった。
際限なく甘やかされた子供の傍若無人な態度に、親がただ笑って見ている、そんなときに世間の人がする「あきれたような、あわれむような」表情。
私は小さな頃からそんなものをたくさん見てきたような気がする。
子供に「自分は甘やかされている」という認識があるわけもなく、それは子供にとっては、「意味もなく自分に向けられた大人からの敵意」でしかなかった。

幼稚園。
初めての社会生活は監獄のように味気ないものだった。
根拠もなく美人だの頭がいいなどと親からちやほやされて、自分は特別だと思っていたのに、ここでは誰も私をほめてくれない。
私は一体何故こんなところに毎日通わないといけないのだろう。
しょっちゅうおなかが痛いと言ってはズル休みをした。
母が許さなくても、父に訴えれば許してもらえた。
幼稚園では、自分が大勢の中のひとりでしかなく、
「あちらに行きなさいと指示された方向」にみんなが向かっていくのに一足遅れで慌ててついていくのが精一杯だった。

小学校。
1年生で担任を受け持った峯島先生は、4歳上の私の姉を昨年まで担任していた先生だった。姉は私とちがって美人で、快活で勉強も良く出来た。
峯島先生は母親に言った。
「ごきょうだいとは思えませんね。」

私は勉強も出来なかったし、可愛くもなく、これといって取り柄もなく、いつも「その他大勢」の中に埋もれていた。
私と同じくらい、おとなしくて目立たない勉強の出来ない子といつもふたりで、息をひそめるようにクラスの中にいた。

4年生で池田先生が担任になった。
先生はあるとき、私の作文をほめてくださった。
国語の授業中に、先生はそれをみんなの前で読んだ。
私が初めて、「よその人」に評価してもらえた瞬間だった。
うれしかった。

先生は、クラスの生徒全員に毎日日記を書かせた。
どんな小さなことでもいいから、思いついたことや身の回りの出来事を書きなさい、とおっしゃった。
それは生徒ひとりひとりと先生との交換日記のようなものだった。
そして、先生はいつもなにかコメントをつけてくれた。
私は家に帰ると日記を書くのが楽しみだった。
先生が私の文章をほめてくれるから。
私の書くことがおもしろいと言ってくれるから。

先生は私の絵もほめてくださった。
一生懸命にやった自由研究も、高く評価してくださった。
私は池田先生が大好きだった。
はじめて私をほめてくれた人だから。
私のいいところを見つけてくれた人だから。

どういうわけだか急に成績が上がり、5年生の2学期ではクラスの女子で一番になった。自分に自信も出て、明るくなった。
私立の中学に合格したとき、先生は大変喜んでくださった。
そして、他のクラスの先生に対して、ちょっとばかし鼻が高そうにしていらした。

卒業式で。
桜吹雪と蛍の光を、晴れやかな気持ちで迎えた。
母とふたりで挨拶をし、先生と別れた。

先生。
お手紙も書かなかったことを許してください。
短大を出て社会に出て、普通のOLになり、20代のほとんどを目的もなく過ごしました。
日々の生活に埋もれて…・・やがて「世間ではよくある」自分探しのための留学をしました。
自分を見つけた―――ような気になって帰ってきました。
それからはがむしゃらに、いろんなことにトライしました。
だけど、どういうわけだか、どれも思うように行きませんでした。
30歳を過ぎ、まわりはみなどんどん結婚していく中で、私はキャリアもつめず、結婚も成らず、そんな頃でした。クラス会のはがきが来たのは。
とても…・・行く勇気がありませんでした。

あれからずいぶん経ちました。
今思えば、あの頃苦労したことは無駄じゃなかったと思っています。
あとになってから報われることも、役に立つ事もあるのですね。
今でも、自暴自棄になることはあります。
仕事で辛いときや、認めてもらえないときなど。
でも、自信を持つことを私に教えてくださったのは池田先生でしたものね。
あのときのことを、いつも思い出します。

先生、本当に申し訳ありません。
でも、先生のことを忘れたことはありません。
先生は、私の一番の恩師でした。
ありがとうございました。
さようなら。


2003年7月

 
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