平和の象徴

 
のんびり過ごすはずだった9月の3連休に、その事件は起きた。

土曜日の朝、7時。
夫と私はまだ寝床にいた。
ベランダで「クックー、クックー」という声がする。
まただ。
朝はよくベランダに鳩が来る。
まったくもう、と私が起き出す。
リビングを通ってベランダのカーテンを勢い良く開けると、バタバタと鳩が逃げて行く。
ったくしょうがない…
最近ではフンもしょっちゅう落ちていて、拭いても拭いても汚されるのだから困ったものだ。
着替えて洗濯物を干していたときに、ベランダの排水溝に落ちているものにふと目が止まった。
なんと、それは鳩の卵だった。
「ちょっと!大変!」
新聞を読んでいた夫に告げると、
「うわ〜勘弁してくれ〜」と情けない声を出す始末。
この人は虫だとか動物全般が苦手なのだ。
釣りをしても釣った魚がつかめなくて、そのまま逃がすらしい。(だったらしなければいいのに)
そうは言っても、私もあまりこの手のものは得意じゃない。鳩には悪いけど、野鳥の卵なんて気持ち悪くてさわれない。
とにかく、追い払っても追い払っても鳩が来る理由がわかった。巣を作られていたのだ。
はたしてこの卵をどうしたらいいのか。
ほおっておいたらそのうち孵るだろう。それは困る。
じゃあどうしよう…別の場所に移動するしかない。
公園に運ぶ?
でもそれだと無理やり引き離すことになり、親鳥がかわいそう…
鳩みずから、どこか別の場所に卵を移動してくれるようにしむけよう。
そう決めた私たちは、卵を割り箸でつまみ、植木鉢の受け皿に置き、それをベランダの手すりの外側へ置いた。
一方、巣があった場所には、鳩がもう来られないようにしなくてはいけない。
卵があったのは排水溝の上だ。その場所だけ、ウッドデッキ(最初から取り付けてあるすのこ)が切り抜いてある。
だから、その部分に分厚いカタログ雑誌を置いてふさぎ、さらに植木鉢を乗せ、中に入れないようにして、ベランダのガラス戸を閉めた。
人がいなくなったのをみはからって、すぐに鳩はバタバタと飛んできた。
巣があった場所へ行く。
今までと様子がちがうことに気づき、しきりに卵を探している。
「あっちあっち、卵はあっちだってば」
そう言って移動した卵を指差してもわかるわけがないし…・
とにかく来ないで欲しいので、来るたびに追い払うのだけれど、またすぐにやってくる。
新聞紙を乗せてふたをした場所から、しきりに中をのぞいている。
そして、無理やりウッドデッキの下へ入ろうとしている。
そんなとこ入ったって、ないものはないんだからね。卵はあっちだってば!
そのうち気がついてくれるだろう。
やがて私は鳩の観察にも飽きて、テレビに見入っていた。
しばらくして、卵を移動してくれたかどうか見に行くと、なんと、卵は受け皿ごと消えていた。
風で飛ばされてしまったのだ。
ああ!!どうしよう!!しかしあとの祭り。
弱虫だけどやさしい夫が、心配して階下まで探しに行くという。軍手をしている。卵ひとつさわるのに、おおげさだっつーの。
やがて戻ってきた彼が悲しそうに言った。卵はコンクリートの自転車置き場に落ちて割れていたという。
かわいそうなことをした。
鳩さん…・ごめんなさい。
でも、もう来ないで。
その日の午後は、ホームセンターで鳩防止用のスプレーを買ってきて、ベランダじゅうにまき、翌朝に備えた。

あくる日曜日の朝。
ベッドでまだ寝ていた私たちは、バサバサというすごい音で目が覚めた。
ああ、また来た。
うんざりして起きる。
ベランダをのぞくが、鳩の姿はない。
さては、スプレーの匂いにおじけづいて近寄れないのだな。
そう思った私たちは、スプレーの威力に感謝した。
しかし、甘かった。
このあと予想だにしなかった恐ろしい展開になるとは。

とりあえずベランダの鳩のフンを掃除しようと外に出た。
うわあ、あっちもこっちもフンだらけ…
雑巾を片手に、ベランダの端まで歩いて行った。

と、そのとき。

ふと視線を落とした私の視界に、グレー色の大きな物体が映った。
一瞬「雑巾か?」と思ったが次の瞬間にそうではないとわかった。
それが何かを正確に識別するかしないかのうちに、私は恐怖で体じゅうの毛が逆立つのを感じた。
鳩だ。
それも、一羽じゃない。
鳩が何羽か、ウッドデッキの下にもぐり、出られなくなって、ベランダの隅の小さな溝から顔だけ出しているではないか。身動きすらとれないほど、狭い場所で。
グレー色した、鳩の塊。

ぎゃあああああああああ

わざとではないとは言え、卵を勝手に移動したせいで、風に吹かれて落として割ってしまった私たち。
仕返し!?
わが身をそんなとこに閉じ込めて出られなくして、体を張ってでも抗議したいのだろうか?
今はやりの、自爆テロか!?
ていうか、いつからそこにはさまっているのだ?
もしや…昨日からでは?
今朝のバタバタという音は、2羽目が救助に入ったときの音!?
スプレーのおかげで来なくなったなんて、とんでもない思い違いだった。
視界に入らなかったはずだ。
だって、ウッドデッキの下にはさまって身動きとれなくなっていたのだから。

誰かあ、助けてえええええええええええええええええええ

夫は近所まで買物に出かけていていない。
でも、どっちにしても彼は卵もさわれないくらいの人だから、今このとき彼の不在はさして重要なことではなかった。
それよりも。
頭に浮かんでくる、(このまま鳩たちが死んだらどうなるのだ)という最悪の展開を振り払うようにして、対策を考えた。
まず、保健所に電話する。
あいにくの日曜日で、アナウンスが流れる。
「日曜、祝日は営業しておりません。食中毒など緊急の場合は、次の番号におかけ直しください。番号は…・」
すかさずメモした番号にかける。こうなったら、事態の緊急性は食中毒にも劣らないはずだ。うちのベランダで鳩が死んだらどうしてくれるんだよぅ!!
今度は職員が電話に出たが、事情を話すと、それは消防署か警察に言ってくれと言う.。
さすがに躊躇もあったが、もう仕方がない。
119番を回す。
1、2回の呼び出し音ですぐに出た係員がすかさず低い声で言う。
「火事ですか?救急ですか?」
「火事でも救急でもないんです!鳩がベランダのウッドデッキの下にはさまってるんです!どうにかしてください!お願いです!!!」
半狂乱になって訴える私を哀れに思ったのか、相手が答えた。
「わかりました。お役に立てるかどうかわかりませんが、伺いましょう。」

ほどなくして夫が帰宅する。玄関にかけよって泣きながら事態を説明する。
やがて、消防隊の人たちが、3人来た。
私は半泣きの顔で、深々とおじぎをして、ベランダまで案内する。
発見したあとに私が2度と近づけないでいるその現場に、彼らは到着し、落ち着いた声で言った。
「ああ、2羽いますね。つがいでしょう。」
隊員Aがウッドデッキをはずすべく、早速ドライバーを使って作業に入った。
作業中にもトランシーバーみたいなやつで、本部への連絡を欠かせない。
「えー、こちら、XX1丁目。ベランダのウッドデッキにはさまった鳩2羽を救助中。どうぞ。」
うーむ、さすがに市民の味方消防隊員なるもの、逐一行動を報告そして記録がとられるわけだ。一方傍らで見守る隊員Bは、鳩が出てきたときに家の中にに入ったらいけないから、と言ってカーテンを閉じることを忘れない冷静さ。さらに、ひきつった顔で事態を見守る私たちを安心させようとしたのか、明るい声で言う。
「鳩くらい大丈夫ですよ。これがアライグマだと強暴で大変なんですから。」
ベランダのすのこの下にアライグマが2、3頭はさまる事態なんてあるかい!とつっこんでいる場合ではなかった。
そして隊員Cは、鳩を捕まえたときに備えて、何か袋はありませんか、と私に聞いた。
気が動転していた私は、とっさにそのへんに転がっていた、コンビニでガムを入れてくれた小さいビニール袋を力強く手渡す。
(鳩、ボディコンになりそう。)
「えーと、鳩が入るようなやつ、ありませんか」
今度は慌てて70リットルのごみ袋を30枚くらい渡す。
「えーと、一枚でいいんで…・」
恐怖にゆがんだ顔で事態の成り行きを見守ること10分。
ウッドデッキが2枚はずれた拍子に、鳩の夫婦はバサバサと音を立てて大空へと飛び立って行った。
ああ、助かった…・・
恐怖にゆがんだままで立ち尽くす私に、「奥さん、もう大丈夫ですから」とやさしい言葉を残し、ザッザッとその場を去る消防隊員のかっこよさ!ギャオスの退治が終わった後現場を去るウルトラ警備隊を見送るごとく感謝と安堵感に包まれて、何度もお礼を言い、見送ったあと、私は玄関先でへなへなと崩れ落ちるように座りこんだ。

祝日の月曜日。
これに懲りた私たちは、業者に頼んで、ベランダにハト防止ネットを張ってもらった。
昨日逃がした鳩夫妻はというと、まだ卵をあきらめきれなかったようで、ネットをつけている最中も、近くをバサバサと飛んでいた。
もうベランダに入れないとわかると、今度は逆側である玄関の方にぐるりと回ってこちらの様子をじっとみつめていた。彼らはほとんど、ストーカーと化していた。
私たちは、毎日おびえながら「本日の鳩山夫妻情報」を交換するのが日課となった。
が、1週間が過ぎた頃、さすがにあきらめたのか、鳩山夫妻は来なくなった。

私たちは、ダメにしてしまった卵のために、神社にお参りに行った。
しかし、この一件以来、私たちは完全に鳩恐怖症になってしまった。
鳩さん。
あなたたちは、あなたたちの生きる権利があるのでしょう。
だから、好きに生きてください。
でも、お願い。
どうかもう、うちには来ないでください。


2004年10月

 
エッセイの、無断転載を禁止します。
すべての著作権は猫河原寿に帰属します。
このページはレンタルサーバ、ドメイン取得のWISNETが企画運営しています。


Copyright © 猫河原寿 All Rights Reserved.