- イギリスの歯医者 -

 
イギリスへの語学留学を翌月に控えて準備に追われていた頃、なんとか時間を割いて歯医者に通った。言葉も満足にしゃべれない場所で歯が痛くなったりしたら面倒だと思ったからだ。
「悪いところは全部直してください、しばらくもう来られませんから。」
と先生にお願いして、奥歯の虫歯になりかけた部分をていねいに削って詰め物をしてもらった。
これで1年は大丈夫、のはずだったのに。

渡英してまもなくのこと。
奥歯に詰めた詰め物は、無慈悲にもコロンととれた。
いやな予感がした。
その頃の私は英語が全くダメだった。
語学学校のプレイスメントテストでも一番下のビギナークラスに容赦なくぶちこまれて、「ハウアーユー」「ハウデュードュー」とかから丁寧に教えてもらっている身の上だ。
歯医者に行けるわけがない。
それからというもの、奥歯の真ん中にぽっかりと開いた穴に、食事をするたびに食べかすが入りこむようになり、違和感を覚えるものの、仕方ないから放置するしかなかった。
虫歯は当然悪化した。
2ヶ月後、真ん中をくりぬかれた奥歯は、いつしかグラグラするようになった。
それでも放置した。
4ヶ月後、十分に腐食していた奥歯は、サンドイッチを食べただけで折れた。折れた歯を苦々しい気持ちで捨てて、そのまま最後までサンドイッチを食べた。
さすがに痛い。
でも外国で歯医者なんか行くもんか。
言葉も不安だし、海外旅行保険もきかないのだから。
そして私は痛みをこらえ、さらに虫歯を放置した。
5ヶ月後。
折れて無残に根元だけ残った奥歯の隣の歯茎が腫れてきた。
それでも知らん顔する。
6ヶ月後。
腫れがますますひどくなり、親指大の大きさに、プワーンとまあるく腫れている。
ああ、だめだ。
ここまできたらもうお手上げだ。
幸い英語も多少はしゃべれるようになったし、もうこうなったら歯医者に行くしかない。
私はホストファミリーに相談し、ランドレディーのかかりつけの歯医者あてに、紹介状を書いてもらった。
その歯医者は、家から地下鉄でひとつ乗った、ロンドンのカムデンタウンにあった。
待合室で順番を待っているときの心細いこと。
名前を呼ばれて診察室に入ると、50代半ばほどのイギリス人男性の歯科医師は暖かく迎えてくれた。
「ああ、ジョイのうちの生徒さんかね。ジョイは元気かい?よろしく言っといてくれよ。」
なんだか少し安心したけれど、歯の治療をするのには変わりない。
私の虫歯の状態を診察して、先生は言った。
「あらら、これはひどいねえ。歯が壊れてるね。これはもう、残った歯を抜くしかないねえ。」
抜歯しかもう手がないのはわかっていた。
ここまで放っていた自分が悪いのだから仕方ない。
先生は続けた。
「いいかね、今から歯を抜くからね。痛かったら言いなさい。痛かったら、麻酔をしてあげるから。」
(へっ。麻酔をしないで抜くのか?)
と思ったけれど、次の瞬間先生はペンチで私の歯をつかんでいた。看護婦がふたりがかりで私の体を押さえつけた。
大口を開けた状態で両脇から押さえつけられ、歯をペンチでつかまれて、ものすごい力で思いきり引き抜こうとしているときに、痛いとかやめてくれとか、奥ゆかしい日本人に言えるだろうか?
麻酔なしの抜歯は、鬼のように痛かった。
(ぎゃああああ)
心の中で叫びながら、私は耐えた。
歯が抜けたときには両目が涙でいっぱいになっていた。
息を切らせながら、先生が私に聞いた。
「痛かったかい?」
(実際には、Did I hurt you? (私は君を痛くしたかね?)と言った。)
「はい」と答えると、横山やすしみたいに飛び上がって人に指差して、先生は言った。
「痛かったら言えと言ったじゃないか!どうして黙ってたんだ!」
(ていうか、抜歯して痛くない人がいるのか?)
私は涙目のまま、首を振るしかなかった。
先生はほほえんで満足げに言った。(ほほえむなよ!)
「ううむ。日本人は我慢強い。」

そして、歯医者から家までの帰り道。
12月の初旬、街はクリスマスの準備に追われる人々でいきかっている。
きれいなイルミネーションで飾られたギフトショップにふと入ってみる。
色とりどりのクリスマスカードを手に取ってみるけれど、抜歯されたところが痛い。血がどんどん噴き出して、口じゅうが血だらけになるのがわかる。
かばんからティッシュを取り出して、口に詰める。
ズキンズキンと周期的に痛みが襲う。
激痛で涙が止まらない。
それでも耐える以外、どうすることも出来なかった。
寒い中バスの列に並んで手袋をはめても冷たい両手をこすりながら街のイルミネーションを見ていると、ふと涙がこぼれた。
夢にまで見た外国での生活の中では、毎日が新しい体験の連続で、楽しいこととか刺激的なことばかりだった。でも、しょせん慣れない国での暮らしの中ではストレスもたくさんあったし、そんな中でのふとしたカルチャーショックが、なんだかわからないけど今まで我慢してきたことをいっきに思い出させたのだろうか。
涙でいっぱいになった目に映ったクリスマスのデコレーションが、いちどきにあふれ出た。

うちに帰ってホストペアレンツに、麻酔なしで抜歯された話をすると、
ふたりがそろって私に尋ねた。
「ではどうして麻酔を打ってくださいと先に言わなかったんだ?」
私は答えた。
「日本人は、痛みや苦しみを我慢するのが美徳とされているし。歯を抜かれている最中に騒いだり出来ない。」
ふたりは、へえーと言った感じで、感心している様子だった。
痛み止めを飲んでも歯を抜かれたあとの痛みはおさまらなかった。その日は夜中まで痛かった。

やがて痛みはおさまり、奥歯を抜いたところはぽっかりと空いていたままだったけれど、痛みさえおさまればもうイギリスの歯医者に用はなかった。
今思い返してみても悲惨な出来事だったけれど、それは1年間の外国留学で経験した異文化体験の中の貴重なひとつだった。
果たして、抜歯するときにさえも麻酔を拒む患者がイギリスにどれくらいいるのか定かではないのだけど、要は、何でも要求しないといけないらしい。
(言わなくてもわかるでしょ)というのが通用しないから、してほしいことははっきり主張しないといけないのだろう。
「日本人は我慢強い」
歯医者の先生がうれしそうに言ったときの、
(そうじゃない。あなたは何もわかっていない。)
とうらめしく思ったその出来事が今でも忘れられない。
2004年12月

 
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