- 父がくれた名前 -

 
昔から、名前の由来を聞かれるのがいやだった。
道子という名前は、父がつけた。
「道は何にでも通じている。華道、書道、武道、そして人の道。道のように、人に踏まれても泣かない強い子になるように。」と。
最後の部分が、あまりにもひどい。
それでは私の人生は、最初から人に踏まれて足げにされることを前提としているわけじゃないか。
「人に踏まれても泣かないように、道子。」
子供の頃、そう人に説明する度にひどく笑われた。冗談みたいな名前だねとか言われた。
いつしか私は、
「道教から来ているの。ほら、中国三大宗教のうちのひとつで、老子や荘子が唱えた道教よ。その教えの中に道(タオ)という概念があって…」などと、いかにも教養ぶった、まことしやかな嘘をつくようになった。

昭和1ケタ生まれの父は昔から仕事にかまけていて、子供にやさしく語りかけることなどなかった。何かをゆっくり話し合ったとか教えてもらったという記憶などない。
父は資産家である自分の兄の助けを借り、若いうちに事業を興し、早くから成功をおさめた。しかし、しょせんみずからの努力で築いたものではない繁栄にはやがて翳りが見え、事業に失敗して、まわりの人たちもひとりまたひとりと離れて行くには時間がかからなかった。それからはいろいろな仕事についたけれど長続きせず、母親は苦労を重ねた。
まだ高校生だった私に、友達から電話がかかってくると、どんなに早い時間でも父親が出るのが恥ずかしくて仕方なかった。
そんな家に帰るのがいやで、学生の頃はしょっちゅう友達のうちに泊まっていた。
一方父は、あぶくのように消えた過去の成功を捨てて生まれ変わることはついに出来なかった。
いつまでも昔の栄光を夢見ながら、俺はこのまま終わるような人間じゃないんだ。きっとまた成功をつかむ日が来るはずだ。そう思いながら、それでもどこかの会社に勤めては短期間で辞めて、またしばらく家にいるという繰り返しだった。
私にとってそんな父親は理解不能であり、存在自体が邪魔だった。
自分の名前の由来以上にいやだったのは、
「お父さんは何をなさっているの」という質問だった。
それを聞かれるたびに、私はちがう答えを返した。

30歳になった年、父親との大喧嘩を機に、家出同然にひとり暮しを始めた。
その翌年に父は肺癌を患い、手術で摘出したものの、その後しばらくして転移がみつかり、余命半年と宣告された。
入退院を繰り返し、病院と自宅との往復をするのに、車椅子に乗った大柄な父を運ぶのは重労働だったが、兄や姉夫婦がいつも母を手伝っていた。一方私は半年以上に及ぶ父の入院中、見舞いに訪れたのは1度きり、そして2度目は白い布が父の顔を覆っていた。

葬儀を終え、1週間ほどした頃のことだった。
父親の若い頃の友人という人が訪ねてきた。
焼香を済ませた彼に、母が冷たい飲み物をすすめた。
数十年ぶりの再会だという。
私を見るなり、「あなたが道子さんですね」と彼は言った。
子供の頃会った記憶もなく、どう答えて良いかわからないままうつむきがちに会釈を繰り返す私の目をまっすぐに覗きこむようにしてその人は言った。
「あなたがお母さんのおなかにいるときにね」
彼はタバコに火をつけて、続ける。
「女の子だったら、『道子』にしようと思うんだよ。いい名前だろう」って、お父さんがうれしそうに私に言ったのを覚えていますよ。
今度は私がその人の目をみつめる番だった。
「道はどこへでもつづいている。なんの道でもいい、自分の信じた道を行けばいい。人の道を、しっかり歩んで行ける、強い子になるように。
確かそんなことを言ってたなあ。
失礼ですが、今おいくつですか?ああ、、、あれからそんなに経ったのか…・」
父との思い出に浸っていたのだろう、しばらく沈黙したのち、彼は席を立ち、ふかぶかと挨拶をして去って行った。

私はその人の言葉を心の中で繰り返した。
新しい命の誕生を心から喜んでいた父。
私が生まれる前から、私の幸せを願っていた父。
生まれ来るまだ見ぬ我が子が健やかで幸せに人生を送って行けるようにと願っていた父。
それはまるで、まだ生まれていない娘に向けて父が書いた手紙が、父の友人を通じて、30年以上の歳月を超えて、今ようやく私の手元に届けられたような気がした。

父のそんな思いを知らず、ただ拒絶しつづけた私。
生まれる前から愛されていたのに。

「お父さん、ありがとう。」
心の中でつぶやいた。

その日私は、父を思ってもう一度泣いた。

2005年2月

 
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