- さしみちやんの思い出(後編) -

 
子まぐろの死から数ヶ月たち、さしみちゃんファミリーは平穏を取り戻したかのように見えた。
まぐろとさしみちゃんは相変わらず物置のダンボール箱の上でいちゃついては楽しそうにしており、カフェオレと子さしみもずいぶん成長して、庭を跳ね回ったりしてはのびのびと育っていた。
そんなある日。
庭に見慣れないオス猫が現れた。
体全体が明るい黄色で、顔の部分だけが白い。大きさは中くらいなのだけど、どうも不恰好に見えるのは、手足が短い割におなかが出ている(コデブ)タイプだからだ。
私と目が合うと、(びくっ)として顔じゅうに焦りの表情を浮かべ、短い足を必死に動かしてスタコラサッサと逃げて行く。
人の顔色をうかがうような小心者の猫だ。
それからというもの、ときどき現れるようになったその小心者のコデブを母親が「カオシロ」と名づけた。
さしみちゃんファミリーがご飯をいただいているお隣のおばさんが言うには、えさを与えているのはさしみファミリー限定だそうだ。
するとカオシロは、隣のおばさんに隠れてこっそりおこぼれをいただいているのだろうか。
威風堂々としたまぐろと正反対で、気の弱そうな性格と、おなかが出ていて田舎くさいスタイルが、見る者の神経をイラ立たせた。
おばさんは、カオシロを見かけると「こらあ」と言っては追い払うのだった。
そしてうちの母も、カオシロがプランターを倒したりすると(どんくさいのだこいつがまた。足も短いし。)やはり怒っては追い払っていた。

ある日のこと。
驚愕の事実が明るみに出た。
カオシロは、なんとさしみちゃんの愛人であったことが判明する。
まぐろはたいてい留守勝ちで、ひとり残されたさしみちゃんはダンボールの上で日がな一日過ごすことが多かったのだが、その淋しさがさしみちゃんを浮気に走らせたのだろう。
ふたりはまぐろの留守をいいことに、庭の奥の茂みの中でイチャイチャしていたのだ。
もちろん、いくらまぐろがいなくても、カオシロが彼らの家(ダンボールの上)に上がりこむことはなかった。
そこは愛人としての立場をわきまえていたのだ。

さしみちゃんたら…・まぐろとはおしどり夫妻だったはずなのに。しょうがないなあ。でも淋しかったんだね。
しょせん猫や犬の世界は私たちとはちがうのだから理解してあげなくては。
そうは思うものの、幸せに暮らしていた夫婦の間に入りこむ間男のカオシロが、どうしても憎く思えるのだ。
それからというもの、母と私の親子は、ますますカオシロに対しての態度がきつくなった。
顔を見れば「こら、あっちいけ」と言っては追いやった。
それでもカオシロは、すきを見てはうちの庭経由でに入ってきては、さしみちゃんの姿を探してウロウロしたり、お隣のえさのおこぼれをあさったりするのだった。

やがて、冬が来た。
猫たちは、低位置のダンボール箱の上で、家族そろって折り重なるように寝ては寒さをしのいでいた。
可哀相だけど、どんなに寒くても、家の中には入れてあげられない。
せめてもの暖をとれるようにと、私は膝掛け毛布を猫ファミリーに提供し、ダンボール箱の上に乗せてあげた。
やがて猫たちは、くしゃみをするようになる。
我が家のガラス戸のそばでクシュンクシュンとやるので、ガラス戸は猫のつばだらけになってしまい、外側を毎日拭かなくてはならなかった。
風邪を引いたのだろうか。
よく見ると、どの猫も目やにがついている。
病気!?
私はインターネットで猫の病気について調べてみた。
目やにとくしゃみだけでも、恐ろしい病気に発展する可能性があることがわかった。
やがては死に至る場合もある…・!?
どうしよう。
病院に連れて行くべき?
でも、あの子たちはうちの飼い猫じゃないんだけど。
それにだいたい、猫を飼ったことすらない私は、上手に抱っこすることさえ出来ないのだ。
獣医さんに連れて行くとしても、一体どうやって捕まえるというのだ。
もちろんお金だってかかるし、全員連れて行ったらすごいことに。
ほっておこうか。
でも。
もしもさしみちゃんが死んだら…・と考えると、救ってあげられなかったことをずっと後悔することになる。

1階に降りて庭を見下ろすと、日溜りの中猫たちがのんびりと庭の真ん中でひなたぼっこをしている。
こうなったらもうやるしかない。
かくして私は、さしみちゃん捕獲作戦に打って出た。

まず、あらかじめ空気穴をあけておいたダンボール箱をダイニングルームのすみにに置き、庭でぼうっとしているさしみちゃんに忍び足で近づき、思い切って救い上げた。あまりにも簡単に捕まったので拍子抜け。やっぱり野良猫離れしたおっとり猫だ。そのまま急いで家に上がり、ダンボールに入れる。しかし、あとがいけなかった。
パニック状態に陥ったさしみちゃんが、中から爪でバリバリひっかく。空気穴を必死に引っ掻きつづけ、しまいに顔が通るくらい穴が大きくなり、そこから出てきてしまったのだ。
「ここはどこ!?私を帰して!!」さしみちゃんは必死で家の中を駆け回る。せっかく捕まえたのだ。逃がしてたまるものか。
私は急いで庭に通じるガラス戸を閉めて鍵をかける。
しかし、いったん不信感を抱いてしまったさしみちゃんは、再び捕まってたまるものかと、おびえた様子で逃げ惑うばかり。普段はめったに見かけない鋭利な爪も出ている。
しばらくにらみ合いが続く。今度はダンボール箱の空気穴を全部ガムテープで頑丈にふさいだ。いいかげん疲れたのかさしみちゃんはまたぼうっとしている。
私はすきを見てまた上から救い上げた。そうして、すばやくダンボールに入れ、思い切りフタを閉め、急いでガムテープでふさぐ。
中からバリバリと引っ掻くが、もう出られない。
勝った。
ぼうっとした三十路女とぼうっとした三毛猫の闘いは、三十路女に軍配が上がった。

私は歩いて10分足らずの距離にある動物病院まで行くのにタクシーを呼び、さしみちゃんを病院に連れて行った。
診察室へ通され、手馴れた若いスタッフがダンボール箱のふたを開ける。
そうして中を覗くと、観念したのだろうか、さしみちゃんがちんまりとお座りして不安そうにこちらを見上げていた。
先生が言う。
「おやおや、美人さんだね。」
私は誇らしげに微笑む。
さしみちゃんを救い上げ、目やにの様子を一通りうかがった先生は、私に言った。
「じゃあ、注射の用意をしてくるから。あなたはここで猫ちゃんを押さえておいてね。」
(ええっ、そんな)
そうしてまたふたりきりにされると、さしみちゃんは診察室の中を暴れまわった。
思わず叫んでしまう私。
「さしみちゃん!おとなしくしてよ!死んじゃうかもしれないのよ!!」
やがて叫び声を聞いたスタッフが入ってきて、さしみちゃんをひょいと持ち上げる。
驚くようにおとなしくなってされるがままのさしみちゃん。
(一体何がちがうんだ!)
釈然としないがこれがプロの仕事というものだろう。
そうして先生が現れて、それは見事な手つきで(しゅっ)とすばやく注射をし、その間さしみちゃんはじっとしていました。
「い、痛くないんでしょうか?」思わず訊ねた私に、先生は笑いながらおっしゃった。
「そりゃあ痛いですよ。針を刺してるんですからねえ。」
ううむ…プロとはこういうものか。
ていうか、ぼうっとしていて針刺されたのに気づかなかったのかもしれないなあ、とも思った。

診療費は1万円。他の猫たちの分も薬を出していただき、私はさしみちゃんを連れて帰った。
家の前まで行くと、猫が一匹、玄関の前にいる。
玄関先に猫が来ることはめったにないのに。
どこの猫だろう、と思って近づくと、なんとそれはカオシロだった。
心配そうに、私たちを見ている。
自宅は、横に10軒がつながるテラスハウスだ。
庭のほうから玄関にまわるには、大きく回ってこなければならないし、表に回ったときうちがどの位置か的確に判断できるとは、このコデブのカオシロはひょっとしてすごく賢い猫だったのか、とそのとき初めて知った。
ダンボール箱を心配そうにみつめるカオシロ。
さしみちゃんをほんとに愛していたんだね。
あっちいけとか言っていじめてすまなかったね。許せ、カオシロ。

さて、玄関から家に入り庭に行くと、さしみちゃんの子供たちがまだ芝生の上で転がっていた。
今日はいいお天気だから、いつまでもそうしていたいのだろう。
さしみちゃんを入れたダンボール箱をそのそばに置き、フタを開けて、さしみちゃんを逃がそうとしたが、さしみちゃんはまたぼうっとしていた。
「ここはどこかしら〜?」
やがてよっこらしょと箱から出たさしみちゃん。
何事もなかったかのように、まわりの仲間が見ている。
あのさあ。
あんたたち、お母さんがいきなり人間に捕まっちゃったのを、さっき見てたんでしょう?
ちょっとは心配とかしないわけ?
あんたたちって、おばかさんファミリーだねえ。
その点愛人のカオシロは立派だった。
クールで男前だけど冷たいまぐろが留守ばかりしているときに、ふとやさしいカオシロによろめいてしまったさしみちゃんの気持ちがわかったような気がした。
獣医さんでの注射とその後の薬が効いたのか、その後さしみちゃんファミリーの風邪はだんだんと改善したようだった。

ある日のこと。
家に帰ると、母親が困ったように言った。
近所から、猫の苦情が出ているという。
庭が通り道になっていて、最近では他の猫たちも通るようになったし、プランターなど植物を荒らしたりするので、町内会で問題になっているらしい。
主にえさをあげているのはお隣さんだが、うちも薬をあげるときにえさに混ぜてあげたりしたし、病気のとき獣医さんに連れて行ったりしてるのだから全く関知していないとは言えない。
困ったことになったなあ…。

ダイニングの椅子に座り庭を眺めると、さしみちゃんがいつものように首を思い切り伸ばしてガラス戸越しにこちらを見ている。
(コトブキちゃん、お帰りなさい。ニャーニャー。)
いつもなら、帰宅してすぐにさしみちゃんの出迎えを受けて、お返しに頭をなでてあげるのだけれど、今日はどうもそういう気分になれなかった。
どうしたらいいのだろう。
薬を混ぜたえさを与えてしまったからには、もう知らん顔できない。
いっそ、捕まえて避妊させる?
でも、さしみちゃんと子猫たちだけで3匹だし…・
それに最近ではファミリー以外の猫もくるようになってなんだかずいぶん増えたし…・
本当の飼い主ならばペット個体のの全責任を負うかわりに、かわいそうでも避妊手術を受けさせて十分可愛がっていける。でも私にはそれだけの覚悟はなかった。
ひとりで悩んでみてもらちがあかない。
そうしているうちに、猫たちがうっとおしいとすら思うようにすらなった。
さしみちゃんが「ニャーニャー」と話しかけてきても、知らん顔をしていた。

ほどなくして、さしみちゃんは突然姿を消した。
子猫たちはいつものとおり姿を見せているが、さしみちゃんだけがいない。
カオシロはときたま現れてはさしみちゃんを探している様子。
どうしたんだろう。
急に不安になった。
保健所につかまったのだろうか。
誰かに連れて行かれたのだろうか。
可愛いからどこかのお宅で飼われているのだろうか。
だったらいいのだけど。
もしや、さしみちゃんは私が冷たくしたのを察知して去って行ったのだろうか?
それを考えると、胸が痛んだ。
可愛かったさしみちゃんは、それ以来2度と現れることはなかった。

私はさしみちゃんの写真をフレームに入れて飾っている。
あれから何年も経った今、もうさしみちゃんは生きていないだろう。
でも、野良猫なりに、お隣でご飯もいただいて、まぐろというイケメンの夫を持ち、子供にも恵まれ、そしてカオシロという多少小心者でも賢くて思慮深い愛人を持っていたさしみちゃんは、きっと幸せな人生を送ったのだろうと信じている。

2005年6月

 
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