- 味覚は退化する -

 
イギリスに留学する前から、かの地は食べ物がまずいという話は聞いていたが、それは果たして本当だった。
ホームステイ先で出てくる夕食は、冷凍食品をふんだんに使ったメニューだったが、(それは珍しいことではなかったし、冷凍食品自体はある意味一定のライン以上まずくなりようがなかったのでむしろ安心だった)それ以外にランドレディーが調理する野菜にしても肉にしても野菜は茹で過ぎドロドロ状態、味はなし、(テーブルに常時置いてある塩で各自味付けする)日曜日に出てくるロースとビーフも調理のしすぎでパサパサ、それにグレービーソースという名前のついた味もそっけもないこれまたまずいソースをかけて食べるというしろものだった。
ある日曜日、ロンドンに遊びにでかけた。ランドレディーがお弁当を作ってくれた。サンドイッチのまわりにポテトチップスや小さなチョコレートビスケットが飾られていかにもおいしそう。
公園のベンチに座りサンドイッチを取り出し、がぶりと食べた瞬間に「ああ〜だめだ〜」と泣きそうになる。やっぱりまずい。作ってくれたランドレディーには本当に申し訳ないと思ったが、私はパンを細かくちぎって鳩にあげた。
サンドイッチの中身はキュウリとベジマートというペースト。サンドイッチというこんなにシンプルな料理で、一体どうしたらこんなにまずい作品が出来るのか、本当に不思議だった。その不思議は、どこのカフェに行ってもついてまわった。まずくないサンドイッチにお目にかかるのは本当にむずかしかった。
イギリスの庶民的な食べ物で有名なフィッシュ・アンド・チップス。これは街のいたるところにあり、手軽に食べられるファーストフードだ。タラなどの白身魚を揚げただけのシンプルなフライに、これまたテーブル備え付けの塩とか酢をかけて食べる。そのままでは味がついていないただの魚フライであり、それ以上でもそれ以下でもない。それに、つけあわせのチップス(ポテトフライ)がこれでもかとついてくる。チップスを適当に残さないと胸がむかつくのは言うまでもない。最初の頃はものめずらしくて何度か食べたけどすぐに食傷気味となる。

渡英して半年が過ぎた頃。
季節はクリスマスシーズンで街じゅうが浮き足立つ。学校も冬休みに入り、私はニューヨークに住む日本人の友人夫妻の家でクリスマスを一緒に過ごすこととなった。
ヒースロー空港からニューヨークのJFK空港へ、学生割引で買えた安いチケットを持ち、TWAというアメリカのエアライン(その後アメリカン航空に買収されたらしい。)のフライトで飛んだ。
離陸後すぐに機内食が出る。食事の内容はパスタとチキンの料理。これが、天にも登るほどおいしいのだ。ああ、日本を離れてから6ヶ月。こんなおいしいものは久しぶりに食べたなあと感激する。やっぱりアメリカのエアラインはちがう。
やがてJFK空港に到着すると友人夫妻に出迎えられて、タクシーで自宅へと向かう。
それから10日間の間、夫妻のホスピタリティーにすっかり甘えた私は、毎日観光をしたり美術館を訪れたりして夢のように楽しい日々を過ごす。
遊んでばかりの時間ももちろん楽しいのだが、何よりありがたかったのは、マズイものを食べずにすんだことだ。
奥さんのキミエちゃんは昔からお料理上手。日本の食材が(ロンドンなどに比べれば)比較的手に入りやすいNYなので、和食も頻繁に作っているとの事。
滞在中は彼女の作る食事をごちそうになったり、リトルイタリーやコリアンタウン、チャイナタウンなどで各国料理に舌鼓を打つ。毎日おいしいものばかりで、まずいものに耐えてきたイギリスでの半年が嘘のように思えてくる。
そんな夢のような幸せな10日間のホリデイもやがて終わり、イギリスへと帰る日が訪れた。夫妻に見送られてまたTWAの飛行機に乗り込む。機内食が運ばれる。一口食べたところで思わず衝撃が走る。、
「うっ」
吐き出したい衝動を抑える。
なんだこれは。このマズイ代物は一体なんだ?
メニューは魚のムニエルと野菜のつけあわせなどというありきたりのものだったけど、味つけも何もかもが、おそろしくマズイのだ。
つい10日前に、ロンドンからNYに乗ってきた、同じTWAの飛行機で食べた機内食のあの天にも登るようなおいしさを思いだし、一体これはどうしたものかと不思議に思った。
やがてロンドンに到着し、ステイ先に戻るべくバスターミナルへ向かい、待ち時間の間に腹ごしらえ、と思いカフェでサンドイッチを食べる。
今度こそ失神しそうになる。
ああ、まずい。やっぱりまずい。
そうだった。この味だ。イギリスに私は帰ってきたのだ。
半年間といえども暮らした場所、そしてあと半年暮らす場所だ。とりあえず今の私にはここがホームなのだ。いくら友達と一緒でも、アメリカはホリデイで訪れた知らない国だった。いっきに緊張が解けるのを感じる。そうしてホームに戻ってきた私は、はからずもそのまずい食事で安堵感を抱いてしまったのだった。
同じTWAの機内食で、行きと帰りの落差についての謎も解けた。
TWAの機内食なんて最初からおいしくなかったのだ。
しかし、6ヶ月間に及ぶ「食の砂漠」で貧しい食生活を過ごした結果、私の味覚は完全に麻痺していたにちがいない。だから、行きの機内食はおいしく思えたのだ。
つまり、

イギリスの食事 < TWAの機内食 < キミエちゃんの手料理やNYでの外食

このような式が出来あがることになる。これはおそろしい発見だった。

「味覚は、退化する。」

いやしかし、短期のうちならそれを元に戻すことも可能である。しかし、貧しい食文化圏での生活がある程度以上の長さに及んだら?それはわからない。

イギリスで過ごした1年間は素晴らしいものだった。庶民の地味な生活や、日本に似たところのある、ほどよく距離を置いた他人との付き合い方とか、人々のおくゆかしさとか、共感できるものがたくさんあった。そうして、自然を愛し、自然に生きることをよしとする考え方も。
イギリスから日本へ帰る日の朝も、乗っている飛行機が離陸したときも、私は思いきり泣いた。帰りたくない、ずっとここにいたい、と心から思った。
でも、あの貧しい食文化だけは…・ほんとうにこりごりだった。
食べ物に関してだけは、日本に生まれて本当に良かったなあと思っている


2005年10月

 
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