- さしみちやんの思い出 -

 
ある春の日から、庭に猫が来るようになった。
母猫と子猫が3匹。
小柄で三毛の母猫は、端正な顔立ちで、子猫たちの面倒をよく見るやさしいお母さんだ。と同時に、外敵から子猫を守ろうという意識の強い、毅然とした猫だった。
ガラス戸越しに庭を見ると、彼女はいつも子猫たちの世話をしていた。
丹念に毛繕いをしてあげたり、鬼ごっこをして遊んであげたり。
しかし、私が戸を開けると、その音に気付いて子猫を自分の後ろに隠し、
「子供たちに何かしたら承知しないわよ」
と言わんばかりのきついまなざしで睨み付けるのだった。

やがて母親猫はいなくなり、子猫たちのうち一匹だけが残った。
母親から美貌を受け継いだ、メスの三毛猫である。
しかし、きついまなざしと機敏な動きは少しも受け継がなかったらしく、表情のやわらかい、気立てのおだやかな、のんびりした猫だった。
私はその猫をさしみちゃんと名づけた。
いつしかさしみちゃんは、庭の物置の上に置かれたダンボール箱の上を自分の定位置に決め、気がつくといつもそこに座っているようになった。
しかしその物置というのは、我が家の1階のリビングダイニングから庭に出るガラス戸の外の、すぐ脇に置かれていたため、そこに座ったさしみちゃんは位置的に我が家のダイニングをちょうど見下せる場所なのだった。
朝も、夜も、ダイニングに入っていくとさしみちゃんはどこからともなく現れ、その場所に座り、うちの中を興味深くのぞいていた。
用心深い母猫に育てられたわりには、ずいぶんと人見知りしない猫に育ったものだ。
それからというもの、食事時には必ずと言っていいほど、さしみちゃんはガラス越しに私たちの食事風景をみつめていた。お隣でごはんをいただいている様子だったが、食べ足りないのだろうか。でも野良猫にえさをあげるのもどうかと思い、私たちは知らん顔するしかなかったのだけど。
ごはんどきでなくても、さしみちゃんはしょっちゅう首をニューとのばしてガラスごしにこちらをながめては、中に入りたそうにしていた。ときどきガラス戸をあけっぱなして置くと、本当に家にあがりこんでしまうのだ。しかし、「こらあ」という叫び声とともに母に追い出されるのがおちだった。

さしみちゃんは小柄で品のある美しさと可愛らしさを持った美人猫だった。
しかし性格はきわめてのんびりやで、どちらかというとぼうっとしているタイプだ。
やがてさしみちゃんは結婚し、大柄のトラ猫と一緒に物置の上にいることが多くなった。
私は彼をまぐろと名づけた。
まぐろは堂々としていて、目元がきりっとした風格のある猫だ。
どっしりと構えてダンボール箱の上に座ったまぐろに寄り添うようにしてさしみちゃんがいつも隣にいた。ふたりはおしどり夫婦だった。
あるとき、ガラス戸を開けてさしみちゃん夫妻の様子をうかがった拍子に、それまでさしみちゃんとじゃれあっていたまぐろは、水をさされて不機嫌になったのか、立ちあがってどこかに行ってしまった。その場を去ろうとするまぐろに「行かないでえ〜ダーリン!」と爪を立てしがみつきながら懇願するさしみちゃん。
しかしまぐろは振り切って行ってしまった。
(あら…私のせい?)
さしみちゃんはこちらを見て、めずらしくきつい眼差しで睨み付けた。
さしみちゃん、ごめんね。私はしょんぼりして謝った。
さしみちゃんはまぐろが大好きなのだった。

やがて子猫が三匹生まれた。
一匹はさしみちゃん似の三毛猫で、子さしみと名づけた。そしてまぐろに似たトラ猫、これは子まぐろ。そしてもう一匹、ベージュ色の猫、これはカフェオレと名づけた。
しかし。
初めて生まれた子供たちをどうやって世話していいのか、さしみちゃんは戸惑っていた。
かつてさしみちゃんのお母さんがやってあげていたように、鬼ごっこをしてあげるときもあるけど、どうもぎこちない様子。ていうか、さしみちゃんはお母さんになってもやっぱりぼうっとしていた。
なにせ子猫たちはパワーがありあまり、庭で転げまわるわ走り回るわ、3匹であっちいったりこっちいったり。
彼らのあまりの元気さに、さしみちゃんはしばしふうーとため息をついてはあさっての方向に向かってひとりでごろんと転がったりしていた。
(一日中子供の世話すんのって疲れちゃうのよねえ〜。アタシだって自分の時間も欲しいし〜)
と言った相変わらずマイペースな様子。
(大丈夫なんだろうか…)他人事ながら私は思っていたのだけれど。

そんなある日のこと。
その日は朝から冷たい雨が激しく降っていた。やがて雨は大きなヒョウに変わり、庭にあるものをすべて打ちつける大きな音が響いている。
猫たちはどこかで雨宿りしてるのだろうかと、ふと思い巡らせていた。
翌日私が帰宅すると、母が待ち構えたように出迎えて、青ざめた様子で言う。
「大変なのよ!」
母の話によると、さしみちゃんがガラス戸越しに必死で何かを訴えようとしていたのでどうしたのかと思って外を見ると、冷たく凍りついたように硬くなった子まぐろのなきがらがそこにあるでないか。
そして、泣きそうな顔をしたさしみちゃんがその隣ですがるように私たちを見上げている。
おそらく子まぐろはヒョウに打たれて死んだのだろう。そして、子供を亡くしたさしみちゃんはどうしていいのかわからず、うちに助けを求めてきたのだ。
「保健所に頼むと動物の死骸もひきとってくれるらしいけど」母が言う。
しかし、保健所に回収されたあとどのように処理されるのかがわからなかった。もしかして他の生ごみなどと一緒くたに焼却されるのかなあ、誰かひとりでもお祈りしてくれるのかなあ、そんなことを考えた結果、私がうちの庭に埋めることにした。
シャベルで土を掘り起こし、大きく掘った穴の中に子まぐろをそっと入れて、また土をかける。
まだ子猫だったのに天に召された、かわいそうな子まぐろ。
すばしっこく庭を走り回ってプランターを倒しては母を怒らせるほど元気いっぱいだった子まぐろ。
私は頬を伝う涙をぬぐいながら、「アカシアの雨に打たれて」を見送る歌として歌ってあげた。(なんか淋しくてその場に合ってる気がしたから。)
そうして、シロツメクサを摘んでお墓に捧げた。
子まぐろ、安らかに眠ってください。
さしみちゃんは、その様子を一部始終ずっと、私の後ろで見守っていた。
その美しい瞳は確かに潤んでいた。
それは、今までに見たことのない、心から悲しそうな表情だった。
動物を飼ったことのない私だけれど、猫にも感情があるんだなあ、泣いたりするんだなあと初めて知ったのだった。

後編に続く

2005年4月

 
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