日本女装昔話
第27回】  男性音楽教師から女性歌手へ 吉川香代   (1950年代)
初期の「性転換女性」シリーズ、永井明子、松平多恵子に続く第3例目は、吉川香代です。
 
吉川は、男性名を弘一といい、1921年(大正10)年、名古屋市に生まれました。小学五年生の時、一家をあげて上京し、東京の本所に転居します。弘一少年は、音楽家を目指して国立音楽大学に入学。ピアノ科から声楽科に移り将来を有望視される成績で卒業し、郷里に近い愛知県豊橋中学校に音楽教師として赴任しました。
 
ところが、戦争が始まり、1943年(昭和18)、招集されて陸軍衛生兵として中国戦線に出征しました。ところが、軍服を着ていてもどこか女らしいその姿。ある将校は、裾の割れた中国服と化粧品を調達して吉川衛生兵に与えて寵愛します。それがきっかけとなって、吉川の心の奥の女性が目を覚まし、部隊のマスコット的存在となって、終戦を迎えました。
 
1946年(昭和21)、上等兵で無事に復員、東京の深川第一中学校の音楽教師として再び教壇に立ちました。ところが、その頃から心だけでなく、ヒップが丸みを増すなど身体の女性化が目立ちはじめ、「あの先生、女じゃないか」と生徒たちが噂をするようになります。
 
悩んだ末に医師の診断を受けると、結果は女性仮性半陰陽。つまり、本来の性別は女性なのに性器の外観が男性的であったために出生時に男性と誤認されたのでした。
 
その診断で、吉川は女性への転性を決意し、1954年5月から55年12月までの間に、大田区の小山田外科病院で3回の手術と女性ホルモンの連続投与を受けて、女性に転換しました。手術完了の時点で34歳。手術代は30万円、公務員の初任給が5000円だった時代ですから、現在に換算すれば、1000万円ほどに相当する大金です。そして、戸籍も女性に訂正し、名前も香代と改めました。
吉川は、最後の手術の直前に、教職を辞して職業歌手に転身します。芸名を緑川雅美と名乗り、浅草の料亭「星菊水」の専属歌手として1960年頃まで舞台で活躍しました。その後は、歌謡教室の先生に転じたようです。
 
吉川の例は、典型的なインターセックスの事例で、手術も半陰陽の治療のためのものですが、報道では「“娘十八"から再スタート−女に性転換して取戻した青春−」(『週刊東京』1956年10月27日号)のように「性転換」として報じられました。
 
当時は、インターセックス(半陰陽)とトランスセクシュアル(性転換症)の区別があいまいで、男性として生活していた人が女性になれば(逆も同じ)、すべて「性転換」として扱われたようです。
 
吉川香代のその後の消息はわかりません。1960年頃の報道では結婚の噂もあったようです。男性音楽教師 → 陸軍兵士 → 女性歌手という数奇な歩みをたどった彼女の後半生が幸せであったことを願いたいと思います。
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「資料27-1」


「資料27-2」


「資料27-3」


「資料27-4」
資料27-1  軍隊時代の吉川香代(『週刊東京』1956年10月27日号)
資料27-2 「性転換」直後の吉川香代(『週刊東京』1956年10月27日号)
資料27-3  振袖姿の吉川香代(『別冊 週刊サンケイ』1956年10月25日号)
資料27-4 女性歌手時代の吉川香代(掲載誌不明。1957〜58年頃)